Özdemir İnceコラム:「リングワ・フランカ」のひとつとしてのトルコ語―Milliyet紙「メフメド・ウズン特集」への私見(前)―
2006年12月01日付 Hurriyet 紙

アラブ人が「ルガト・エル・イフランジ」と呼ぶ「リングワ・フランカ」には3つの語義がある。

■第1の、かつ古典的語義
地中海の諸港、とりわけチュニスと西トリポリ(現リビアの沿岸部)において14世紀以降に話されたコミュニケーション言語。一種の「ピジン」言語、混成語。語彙面ではスペイン語、イタリア語が重きをなしたものの、この人工語には、アラビア語、マルタ語、トルコ語、フランス語の要素も含まれていた。

■第2の、かつ現代的語義
異なった言語、方言で話す人々や集団がその間で意思疎通するために用いる共通語。
帝国主義時代における英語、フランス語、オランダ語。また、現代では、南サハラにおけるスワヒリ語やアフリカにおける英語とフランス語。

■第3の語義
時代に応じて変化する通商・外交言語。一定の時期と場所においてもっとも影響力のある民族の言語。ラテン語、古代ギリシャ語、アラビア語・・・トルコ語はこの第3の語義に属している。

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しっかりとした百科事典で1071年以前とそれ以後のアナトリア歴史を読んでみれば十分だ。(登場するのは)ヒッタイト、キンメリア、フリギア、リディア、ペルシア、アレクサンドロス帝国、時代が下れば、アナトリアのヘレニズム化とキリスト教化に重要な役割を担ったセレウコス朝、紀元前133年のローマ属州化、ビザンツ帝国。

この混沌のなか、アナトリアの大部分はコイネーと政治的支配を通じてヘレニズム化した。つまり、ヒッタイト人やキンメリア人の末裔や、フリギア人、リディア人が、コイネーを身につけて話した結果、ヘレニズム化したのである。のちに彼らはキリスト教徒となった。ゆえに、1923年以降の住民交換でギリシャに送還された人々はギリシャ人ではなく、アナトリアでルームと称した土着の人々であった。(彼らは)トルコ語を自分の身とともにかの地へ携えていったのだ。

1071年、最大50万人のトルコ系部族がアナトリアにやってきたとき、そこには1000万人近いキリスト教徒が暮らしていたとされる。この人々は、コイネー(ギリシャ語)、アルメニア語、ラズ語、グルジア語などの言葉を話していた。彼らの8割近くは200年のうちにムスリムとなり、トルコ語を学んでトルコ化した。こうして、まずアナトリアのトルコ系人口の構成員となり、1919年以降、トルコ国民を構成することとなった。

そして、もっとも重要なのは、11世紀以降、トルコ語がアナトリアの「リングワ・フランカ」となったことである。ムスリムになりトルコ語を学んだのはルーム人やアルメニア人に限らず、異なった出自をもつ、都市、街、平野のムスリム住民もトルコ語を学んだのである。

11世紀以降、トルコ語はアナトリアの公用語かつ「リングワ・フランカ」であった。

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アナトリアの岸辺や平野で暮らし、社会の一員となり、生産流通に位置を占め、生産-消費や、文化的関係のうちに身を置いた集団や階層は、母語以外に「リングワ・フランカ」たるトルコ語を学び、彼らの一部は、世界の何処でも、似たような場合や状況ではそうなるように、母語を忘れ去った。

このプロセスのうちに居場所がなかったり、封建関係の支配する周縁部にあった集団は、「リングワ・フランカ」環境の外側にいた。オスマン帝国でさえ、その考え方や政策上の必要性から、彼らに公用語を教える必要があるとは感じなかった。

ゆえに、この関係を見落としている人々は、学校で殴られた小説家メフメド・ウズンを弁護するべくいたずらに八方手を尽くしているのである。

(明日につづく)


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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:4025 )