Haluk Şahin コラム:中央アジアを見直してみる -ニヤゾフ(トルクメンバシュ)大統領逝去に際して
2006年12月22日付 Radikal 紙

トルクメニスタンの指導者サパルムラト・ニヤゾフの死によって、我々の顔は否応なく西から東へ向いている。正直なところ、ヨーロッパ映画で目にするものにそろそろ飽きが来つつあった。要するに、新年間近のこの折に、ヨーロッパ以外の場所に目をやり、別のことを考えてみるのもいいだろう。

我々が「同胞」たるトルクメニスタンを見やると、そこで、我々の気力を萎えさせるものや、逆に鼓舞してくれるものに出会うことができる。

ソ連崩壊直後、私は新聞記者として首都のアシュガバードに2日間滞在したことがある。ニヤゾフ大統領とも握手した。ニヤゾフは(まだ)「トルクメンバシュ」ではなかった。奇妙な時代だった。過去は既に終わっていたが、未来はまだ始まっていなかった。いくつものレーニン像は(まだ)あるべきところに立っていた。あらゆる表記がキリル文字だったので、街そのものが一種の「なぞなぞ」を思わせた。

泊まったホテルは、1950年代のスィルケジ地区のホテルのようだった。商店は空っぽだった。巨大な絨毯博物館には、「ソビエト社会主義革命」を題材としたひどく大きな絨毯が飾られていた。

人々は引っ込み思案だった。彼らからすれば、我々は宇宙人と同じくらい「よそもの」だと思われていた。私はアシュガバードはそれっきりだが、あの頃から随分といろんなことが変わったのは知っている。確かなのは、この国が、見かけ上は我々に近づいたことだ。ラテン文字を導入し、新しいホテルが建ち、巨大なショッピングモールが開業した。その一方で、失業、貧困、不正という難問を解決できなかった。トルコに出稼ぎに来ているトルクメン人たちから、色々と悲惨な話を耳にしている。

トルクメニスタンも、中央アジアの他のトルコ系諸共和国と同様に、「将来は輝かしく、現状は酷い」国家のカテゴリーに分類される。

この酷さの原因の最たるものは、民主主義(デモクラシー)の欠如と(国家が)「ガラス張り」ではないことだ。石油と天然ガスによる収入の使途は、その妥当性が調査できないままになっている。資金は、奇妙なプロジェクトに無駄遣いされ、ばら撒かれている。

ニヤゾフの死によって、トルクメニスタンは脱ソビエト共産主義の第2段階に移行したといえる。第1段階とは、ソビエト期の指導者自身の共産主義から民族主義への移行の段階のことを指している。いまや、順番は新たな世代に移り、民主主義(そしてトルコ)の本来の出番はこれからだ。

この第1段階から第2段階への移行が一筋縄ではいかないと知っていた(アゼルバイジャンの)ヘイダル・アアリエフは、後継者に自らの息子イルハムを用意したのであった。当初は「不死身」という考えに取り憑かれていたニヤゾフのほうは、ここ数年、自身の後継者探しに踏み出す準備を整えていた。2009年には(大統領)選挙が実施されることになっていた。

死は予定よりも早く訪れた。

これからどうなるのだろう?アブドゥッラー・ギュル外相が語ったように、空白期や騒乱期があってはならない。そもそも、複雑な地域にはこれ以上の危機に耐える余力はない。

ヨーロッパの冷ややかな態度が原因で、酷く悲観的になっているトルコが、自分自身が一種の失望の原因となっている中央アジアを、新たな目で見直してみるのは何らかの役に立つだろう。

死者のために死んではならないのだ。


*********以下関連翻訳***********
2006-12-22  ギュル外相、エルドアン首相とともにトルクメニスタン大統領葬儀参列へ(Milliyet紙)
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/newsdata/News20061222_4191.html

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:4194 )