Ismet Berkan コラム:「漫画のような人物だった」ニヤゾフの死に寄せて(Radikal紙)
2006年12月23日付 Radikal 紙

旧ソ連地域で、特にトゥルグト・オザル、スレイマン・デミレル両大統領のおかげで中央アジアの「トルコ系」共和国において、一時期あちこち回る機会を多く得た。

カザフスタンの砂漠で、タジキスタンで、キルギスで、アゼルバイジャンで、トルクメニスタンで、さらにモンゴルで、これらの国々が20世紀に味わい経験した社会変革を見知り、議論するチャンスを得た。もしかしたらキルギスと、モンゴルをも除くとして、他の全ての国は鉄の拳を持つ独裁者によって導かれていた。ソビエト連邦の「西の方」にある国々に比べ、東にある国では民主主義の“み”の字もなく、民主主義がないことも問題とされなかった。

独裁者の中には、他の独裁者と比べてより「政治家」らしい人もいた。たとえば(アゼルバイジャンの)故ハイダル・アアリエフや、(カザフスタンの)ヌルスルタン・ナザルバエフのように。また(ウズベキスタンの)イスラム・カリモフのように、単なる独裁者もいた。しかしその中にあって、まことに滑稽に見えるような人物が一人いた:それがサパルムラト・ニヤゾフであり、自らを「テュルクメンバシュ」と呼ぶ人物だった。

トルクメニスタンは、ほとんどまっ平な国だ。国の大部分は砂漠だ。砂漠の下に豊かな石油と天然ガスの鉱床がある。ニヤゾフは、一人の孤児としてソ連に育てられ、ソビエトじかけの歯車で形作られた人だった。1985年にトルクメニスタン共産党の総書記となり、その時以来国を一人で率いていた。トルクメニスタンが独立を勝ち取ったとき、異論なく指導者となった。

そして彼はこの砂漠の国に1つの「国民国家」を生み出そうと奔走した。最初の仕事こそ野党に阻止されたが、そもそも野党はそれほど幅広い基盤を持っていなかった。その後、真に独裁者として国を率いた。
たとえば一度はテレビで生放送されていた閣議で農務大臣を「お金をよく盗む」と非難して罷免し、代わりに農務省から中堅の役人を登用、財産を没収した元の大臣をその中堅の役人の地位に置くこともあった。また別の機会にはテレビに出演し、国民に「あなた方の何十億ドルというお金はスイスにある私の銀行口座でしっかり守られている」と話した。

彼の滑稽さは、親しみやすさから来ている部分があった。手を血で染めた独裁者であり、マイクを見つけるや何時間でも話し続けるにもかかわらず、人々はどういう訳か彼がいい人だと思っていた。にもかかわらず、人を苦しめようと思えば徹底的に苦しめた。どれほど多くのビジネスマンがこの国に来ては、テュルクメンバシュと1つのことが原因で口論になったために一文無しで帰っていったか。
一説にはこの国で行われる全ての投資に彼は多かれ少なかれ出資し共同経営者となっていた。しかし彼の国に80年間で行われなかったほどの投資をもたらした。彼はトルクメン人の運命を少なくともソ連と同じ位変えたのだ。

旧ソ連地域でマフィアがいない唯一の国がトルクメニスタンだ。武器を携えることは大きな罪であり、その武器に銃弾を込めることはさらに大きな罪となる。この国では武器を携えたり、発砲したために処刑される人もいた。
「国民国家」創出のプロジェクトの第一歩はキリル・アルファベットから逃れてラテン・アルファベットに移行することだった。次の一歩は忘れられていたトルクメン語を広めることだった。そして3歩目は「テュルクメンバシュ」信奉を作り出すことだった。

(生前)アタテュルクを手本としたと何度も言っていたが、アタテュルクと比較すると漫画のような人物だった。

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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:4199 )