Türker Alkan コラム:偽預言者あるところに偽信者あり?
2006年12月26日付 Radikal 紙

活字メディアで時々目にする表現がある。「偽預言者逮捕される」、「偽聖者迫害される」、「偽シェイフ襲撃される・・・」。

きっと、この件については私が門外漢だからなのだろう。これら宗教上の大人物たちを偽者と本物とに区別する何らかの方法があるのだろうか、と非常に気になっている。仮に偽者だと判断された本物の預言者たる人物を拷問にかければ、それは少々恥ではなかろうか?「我は預言者なり!」と言う人物が、笑うことなくそう言えるのであれば、視線をそらすことなくその文言を繰り返せるのであれば、きっと本物の預言者だ。違いますかね?

そもそも「我は預言者なり!」と言う人物が非難にさらされ、拷問され、相手にされないのはよくお目にかかる状況である。有名な言葉にこうある――「誰しも自分の村では預言者ではない」。

「偽預言者」という言い方はしきりに用いられているが、どういう訳か、誰も「偽信者」呼ばわりされることはない。ここでは、体の右側や左側を串刺しにしたり、頭を刃物で打たせたり、「ホッ、ホッ、ホッ」という掛け声とともに拳をお腹の辺りへ振り下ろしながら一種のダンスを踊ったりする信者のほうが、預言者よりも重要だろう。

なぜなら、預言者たちを預言者たらしめているのは、そもそも信者たちなのだ。もっぱら、このようなことの顛末に際しては、信者の視点を見ることが必要である。運命に舞い踊る預言者を本当に信じていることが、この問題の要点である。

しかし、これらの問題について、理解しがたいことがある。それは、預言者と信者が全くの誠実さをもってそれぞれを受け入れていることであるといえよう。このような状況下で見られる様々な行動の形式が(とりわけ性的な事柄に見られる快楽が)、新たな道徳規範に不可欠のものと諒解されるのは避けられないことなのだろう。人間が、日常生活では快楽と感じないであろういくつかのことを「道場」という環境において、容認し実践していることは興味深い。預言者と信者の関係において、実際の「信じさせる側」と「信じる側」の境目がそれほどはっきりしている訳ではないが、それが私には恐ろしく思われる。

そして、「偽」預言者の奇妙な儀式に参加し、存在しない崇拝の様々な型を実践する信者たちの態度は、そこに警察官が踏み込むや否や豹変する。警察官を前にすると、たいてい、こう言いはじめる。「すわ、偽者であるらしい。そうでなきゃ、こんな無様な目に遭うことはなかった。誰を信じていたにせよ、道を誤った!」

交番へ行って、「私はこの預言者様の信者でした。そして、今でもあのお方を信じております。あのお方はアッラーが私どもに遣わされたのです。刑務所に入れるのではなく、たとえ貴方がたがあのお方を拷問によって殺したとしても、私は自らの信仰を棄てません」と述べる「本物の信者」を一度でもご覧になったことがありますか?私はお目にかかったことがない。

預言者が偽者であると警察によって宣告されるや、信者たちも、たちまち「なんと、我らのエフェンディは偽者であったか」と態度を変える。

最後まで預言者を擁護する信者は出てこない。かの古の信者はどこにいるのか!

加えて、最後に私見をひとつ。メフメト・ユルマズは昨日のコラム欄で次のような批判的な問いかけをしていた。「人間はその信条に従って生きねばならないものだと主張する人々は、たとえ無意味なものであってもその信条を理由に訴追される人々がいることに、どうして抗議しないのか?」これは、ここで取り上げた例と共通する問いだと、私は思ったのでした。

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:4231 )