Özdemir İnceコラム:トルコの左派と宗教 (Hurriyet紙)
2006年01月21日付 Hurriyet 紙

■「左派は議論されてしかるべきだが、宗教は議論されるべきでない」ではいけない
 カール・マルクスの「宗教は人民の阿片である!」という言葉は、ある状態を評した言葉にすぎない。しかし、反宗教的言辞としても解釈しうるのであり、またそのように解釈されてきたのである。今や我々は、宗教が人民の阿片か否かを議論するつもりはない。トルコ共和国は、基本的人権と自由、宗教と良心の自由を、憲法によって取り決め、保障する国家である。すべての政党の綱領は、憲法に適合していなくてはならない。共和国主義者と定義しうるであろう諸政党は憲法に敬意は払ってはいるものの、進歩主義者共和党や自由共和党〔注:いずれもトルコ共和国初期の一党制期に成立した野党で、短命に終わっている〕の反革命路線を継承するような諸政党(民主党、公正党、ネジメッティン・エルバカンの組織した全政党、祖国党、正道党、公正発展党)は、宗教を政治的な取引に用いることをやめはしなかった。管見の限りでは、現在の正道党と祖国党は括弧内で言及した諸政党とは一線を画しているようである。

■イスラームを指針とすること
 全新聞にその写真が掲載された。それはバイラム(宗教的祝祭日)の礼拝に二人の孫を連れてきた、共和人民党党首デニズ・バイカルの写真である。写真は、礼拝の前かバイラムのフトバ(説教)を聞いていた瞬間を示している。バイカルは以前にも孫たちとモスクにいたことがあった。
 イスラーム主義系新聞の一人の原理主義者が「左派はもはや『宗教』についてじっくり熟考する必要がある」というような記事を書いている。
 これはどういう意味だ? 宗教と国家の関係は、憲法によって規定されていたのではなかったか?にもかかわらず与えられたメッセージはこうだ。「人民の票を獲得したければ、左派もイスラームを指針とすべきだ」。

■バイカルと宗教的真理
 イスラーム主義者の報道陣と記者たちは、デニズ・バイカルが二人の孫と一緒にバイラムの礼拝に来たことを、共和国と世俗体制の政党、より率直にいえば伝統的な共和人民党を、批判するための材料として使っているのである。
 バイカルが孫たちをバイラムの礼拝に連れてきたことを、宗教教育、コーランコース、イマーム・ハティプ高校にまで拡大している。すなわち「さあ、バイカルくん、君はイスラーム的真理に達して孫たちと一緒にモスクに行っているだろう。なのになぜ学校における実践的な宗教教育や、コーランコース、イマーム・ハティプ高校や国の機関が宗教化されることに反対しているのだ?」というわけだ。
 この段階で反対の声を上げなければ、その時は「さあ、バイカルくん、ムスリムが、イスラームのシャリーア(イスラーム法)の代わりに世俗的原則に則っていることは、宗教的に適切なのだろうか?」とでも言いかねない。

■反動の卑劣さ
 トルコにおいては、憲法を遵守する限りにおいての宗教や宗教生活を、世俗主義政党や左派は何ら問題とはしていない。宗教とその実施を、個人的信仰の範疇を超えて、公共レベルにもたらそうとする人物やグループ、宗教団体、政党が問題なのである。共和人民党が1950年以前に、オスマン帝国期の宗教的干渉と一般的慣習に対して共和国を防衛しようとした。そのため反動勢力は彼らを(卑劣にも)反宗教だと断罪したのだ。政党党首、大統領、首相、閣僚、国家と官僚の重要人物(県知事、郡長、市長たち)は、憲法に適した形で宗教的信仰と行為を行うことができる。しかし、この国では非常に少数ながら、非ムスリムも暮らしているということを忘れてはならないのである。


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( 翻訳者:幸加木 文 )
( 記事ID:1756 )