Türker Alkanコラム:「あぁ、なんと快適な、華やかな暮らし」の陰
2006年12月09日付 Radikal 紙

わかってます。物乞いに施すのはおそらく正しいことじゃない。ましてや、物乞いの子供たちに施すのはとても間違ったことだ。子供につけ込むのを助長するほかに何も生み出さない。しかし、物乞いたちに、(例えば)都市のど真ん中で地面に座っている体が二重(ふたえ)に曲がった老人や、半裸の子供をあやしている女性に、何も施さずに通り過ぎるとき、私は自分の中に満ちてくる罪の意識を抑えようがない。

もしや、彼らが本当に施しが必要な状況にあるのだとしたら?これは永久に答が出ない問いだ。

私は、車に乗っている時に信号で止まると、(寄って来る)小さな子供たちの攻勢に努めて気を留めないようにしている。顔を背けて、手で、「駄目だ、さあ、行った、今に轢かれちゃうぞ」という意味を込めたジェスチャーをすることにしている。おそらく、子供たちはこんなことには慣れっこになってしまったに違いない。彼らは乏しい表情のまま、すぐ後の車のドライバーのところに行って手を差し出している。彼らの年齢も(以前と比べれば)段々と低年齢化しているのだと思っていた。10歳、7歳、5歳、と言うそばから、私の車の脇を通り過ぎて行った子供の中に、驚きの光景があった。たかだか2歳半ばか3歳とおぼしき子供がいたのだ。哺乳ビンを手にして、姉の後でせわしなく手を差し出す子供を目にして、私はすっかり驚いてしまった。

アンカラのど真ん中でこれが一体どういうことなのか、私にはわからない。

そして、あの子供たちが成長してどんなことをするか――実際に知らなくても想像はつく。一部の物乞いは施しが必要なのではなく、同情心につけ込んで金を稼いでいるのだ、と言えよう。但し、全ての物乞いがそうだということではない――これに疑いの余地はない。現実に施しを必要としている人々はいる。より悪いことに、本当に必要としている人々の多くは、他人に乞えないほど誇り高いために、公然と駆けずり回って助けてほしいと求められないでいる。

トルコ共和国首相府統計機構(Türkiye Cumhuriyeti Başbakanlık Türkiye İstatistik Kurumu[略称TÜİK]:訳者)のデータによると、2004年のトルコ全人口の25.6%、つまり1,800万人が貧困層である。世界銀行の報告書(2005年出版)によれば、トルコ総人口の20%が一人当たり日額2ドル15セントの貧困ライン以下で暮らしている。また一人当たり日額4ドル30セントで暮らす貧困層は総人口の58%にあたる。

トルコ統計機構(TÜİK)によれば、約100万人が餓死寸前の貧困層である!

100万人が食べるにも事欠く状況をどうにかこうにか切り抜けんとしている――これは本当に哀しいことだ。しかし、わが国に関して「喜ばしい」ニュースもある。たとえば、先頃、イスタンブルで「ぜいたく会議」が開催され、ぜいたく品や高級品のメーカー関係者が一堂に会したことだ。

講演者のひとりフランソワ・アンリ・ピノー氏は「トルコ、中国、ロシアといった国々の贅(ぜい)への欲求は影響力のあるものです」と仰ったそうだ!「これらの国々でのぜいたく品市場の拡大は急速に進んでいます。」この「高級志向諸国」に複数の人がインドを加えていた。この「高級志向諸国」リストに、中国のような「社会主義」国や、ロシアのようについ昨日まで「社会主義」であった国が載っているのは意味深である。

100万人が飢えたままでいることと、一握りの人がますます贅を尽くして暮らしたいと考えること。両者は無関係なのだろうか?とおっしゃいますよね。あれほどに豊かな人々は、これほどに貧しい人々のおかげで、きらびやかに暮らしている。古いタイプの社会主義はこの問いを克服できなかった。しかし、左派が失敗したからと言って、この問いが、問いであることに変わりはない。そしてこの基本的な問いに取り組むことを見込まない活動は、いかなるものであれ、「左」だと名乗る資格もまた呼ばれる資格もない――そんなふうに私は考えている。

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:4084 )