Murat Bardakçı コラム:最後のカリフの娘、92歳で死去(Hurriyet紙)
2006年02月09日付 Hurriyet紙

最後のカリフ・アブデュルメジト2世の、その美しさで知られた娘であり、オスマン帝国のスルタン・カリフの家系における第一世代の最後の一人であった、ドュルリュシェフヴァル・スルタンが昨晩、ロンドンにて92歳の生涯を閉じた。
1931年、世界で最も裕福なハイダラーバード藩王の息子と結婚し、「ベラールの王女」の称号を得たドュルリュシェフヴァル・スルタンは、今日ロンドンのブルックウック・イスラーム教徒墓地にて埋葬される予定である。

彼女は、オスマン帝国のスルタン・アブデュルアズィズ1世の孫で、最後のカリフ・アブデュルメジト2世の娘であり、「シャー専用の真珠」という意味の名を持ち、オスマン家の最年長の王女であった。
1914年2月にチャムルジャにある父の邸宅で生まれ、幼年時代をドルマバフチェ宮殿で過ごしたドュルリュシェフヴァルは、1924年3月5日、トルコ大国民議会が、カリフ制を廃止しオスマン朝の一族を国外追放する法を成立させたその数時間後の夜、一族とともにトルコ国外に追放された。一時期スイスで暮らした後、一族は南フランスのニース市に落ち着いた。

■イノニュ大統領を訪問
1931年11月ニースで、ハイダラーバードの藩王の息子、アッザム・ジャーと結婚し、「べラールの王女」の称号を得たドュルリュシェフヴァルは、同年12月に盛大な結婚式を行った後、インドのハイダラーバードへ移住した。結婚後、今では「ハイダラーバードの藩王」となったベレケット・ジャーとケラメット・ジャーを出産し、のちにロンドンに居を定めた。
彼女は、1944年5月にパリにて死去した、父のカリフ・アブデュルメジト2世の遺体を、トルコに埋葬するため多大な働きかけをした。オスマン朝関係者のトルコ入国が禁じられていた間は、「ベラールの王女」という肩書きと英国パスポートを使い、時折トルコに来ていたようだ。また、時の大統領イスメト・イノニュを大統領官邸に訪ねたが、埋葬の許可を得ることはできず、民主党政権期にも引き続き力をつくしたが、やはり成果を得ることができなかった。そのため、最後のカリフの遺体は、1954年サウジアラビアへ運ばれ、メディナにて埋葬された。

ドュルリュシェフヴァルは、イスタンブルで過ごした年月に、その美しさ、特に輝く大きな瞳で大衆に非常に愛され、同時代の著名な画家でもあった父にインスピレーションを与えていた。カリフは娘の姿を数多く描き、それらは今日ドルマバフチェ宮殿に展示されている。
最後のカリフの息子、シェフザーデ・オメル・ファルーク氏の姉妹、ネスリシャ、ハンザーデ、ネジラのおばでもあるドュルリュシェフヴァルは、明日ロンドンのモスクで執り行われる葬儀の礼拝の後に、ブルックウック・イスラーム教徒墓地にて、母でありカリフの妻であったメヒスティ皇后の傍に埋葬される予定である。

■流浪の身であった時期、思い出として小石を持っていた
最後のカリフの娘、ドュルリュシェフヴァルは、1947年ハイダラーバードにて、今日ではすっかり稀少となった「鷹」という名の回想記をまとめた。
彼女は、1924年に追放される前、イスタンブルで暮らしていた時期は、本当の名と称号を「国家の美徳であるハーティジェ・ハイリイェ・アイシェ・ドュルリュシェフヴァル・スルタン・アリイェットュシャン妃殿下」といった。1924年3月5日の夕方、一族とともにトルコ国外に追放された頃の気持ちを、著書のなかで次のように述べている。

「私たちは何処へ向かっていたのだろうか?癒しがたい災難か、または異国で受けるであろう無残な苦悩の日々に向かっているのか・・。この突然の打撃によって、私のすべての希望は打ち砕かれ、幸福の光は消えていった。
私は暗い隠遁生活を送りつつ、そのつらい日々の記憶を涙で拭い去ろうとした。過去7世紀以来君臨したオスマンの一族が消えうせ、トルコ史を栄光で充たした才ある者の王位を空にしたまま、祖先の愛した祖国に別れを告げた。
祖国での最後の記念として、足元の小石を拾った。異国での最初の夜は眠れないまま、人生の良き時代を想いながら過ごした。」



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(翻訳者:幸加木 文)
(記事ID:1874)