日常生活でのアレヴィー派(1) (Radikal紙)
2006年01月29日付 Radikal 紙

オズドゥルマズ・デデ「アレヴィー派ということを隠している人は多い。私はアレヴィー派だという理由で仕事を解雇された」

■はじめに
アレヴィー派はこの地域に古くから存在してきた。オスマン帝国とは数世紀の間和解することはなかった。共和国成立以後は多くの問題に沈黙しつつも耐え続けた。複数政党制移行後は「票田」と見なされる以外にこの問題に真っ向から向き合う人は多くはいなかった。1970年代の内政混乱の時代にマラシュの襲撃をきっかけに攻撃の的となった。その後都市への移住の時代に次第に声を挙げるようになる。1990年代に隠し続けてきた伝統を打ち破るべく注目を浴びるようになる。現在EU加盟の過程で保障される民主化の中で問題の根本的な解決を待っている。本シリーズの目的は都市に生きるアレヴィーが日常生活で向き合う問題を映し出すことである。このシリーズではデデを始め、様々な年齢、職業、社会集団からアレヴィーの談話を紹介する。都市における伝統の体現、信仰、礼拝など生活における問題。スンナ派とアレヴィー派の結婚などを取り扱う予定である。

アレヴィー派の支柱であるデデという制度は、農村において社会的調整役を負っている。デデは要請があった村を一つ一つ訪問し、集会を開き、悩み事を聞き、問題を平和的に解決する。「仲介の集会における裁判」では、罪を犯した人、過ちを犯した人、配偶者、家族、隣人に迷惑をかけた人たちに結審を下すのをデデの任務の一つである。

■揺さぶられる権威
ウルヤン・フズル炉辺(集まる場所)のデデ、アリー・ビュユクシャーヒンは61歳の建築技師で、アドゥヤマン在住である。炉辺は南東アナトリア、東アナトリアのアドゥヤマンやマラトゥヤのような都市、シリアのムハベット村、イスタンブル、メルスィン、アダナのような大都市に存在し、約2万人の信徒を持つ。
ビュユクシャーヒンは、父「ハモ・デデ」は1997年に逝去した際、長男であり教育を受けていることからデデとなった。「父が亡くなったとき、信徒や友人が集まり私を適任者と見なした。デデは民衆から好かれる人物で、財力も必要である。冬には村々を訪問し信徒と面会して相談を受ける。そして集会を行っている。ビュユクシャーヒンは、都市への移住によってアレヴィーの信仰が「弱まっている」と考えている。ビュユクシャーヒンによれば、アレヴィーが礼拝を行う“ジェムエヴィ”(集会所)が見つからないことが信仰の弱体化に拍車をかけていると言う。「皆が一同にカウス可能性がない。アレヴィーはジェムエヴィに集まらなくとも信仰は維持できるし、友人や配偶者を見つける事はできる。しかしこれは信仰の一部である。一部の地域ではデデを重視していない。しかしアレヴィーの生活にとってデデは重要なのだ。「ババ・マンスール炉辺のデデ、メフメト・オズドゥルマズは都市に移住したアレヴィーの問題に向き合ううちの1人である。

■社会から恐れている
(イスタンブル郊外の)ゲブゼに住むオズドゥルマズはこう話す。「学校では引っ込み思案でアレヴィーという事を告白できないことは周知であるが、こうした事態はまだ学校でも続いている。時には校長と話し合う事もある。また職場でも同様に、自分の出自を隠している人が多くいる。私自身もアレヴィーという理由から働いていた工場を解雇されたことがある。社会生活のあらゆる場で影響を受け、苦難に直面する。例えばゲブゼでジェムエヴィを作った。しかし(イスラームとしての)正式な認定を得られない。社会は我々の相違を認めようとしないし、援助も得られない。」オズドゥルマズはこう言葉を続ける。「我々はスンナ派の友人の葬儀に参加すればその作法に従うが、スンナ派の友人が我々の葬儀に参加すれば必ず間違える。国のお偉いさんは我々の礼拝を“どんちゃん騒ぎ”と言うが、これは一種の弾圧だ。社会の需要に応え実践を積んだデデを養成し始めている。しかしこれはいずれ組織の崩壊につながるだろう。なぜなら正式な方法で養成していないからだ。(中略)


■若い候補
(中略)

■幸福は違う宗派に見出す
アレヴィー派とスンナ派は現代社会ではより入り交じった状態である。職場では肩を並べて働くし、学校も大学でも席を並べている。社会、政治、宗教的見解が異なろうとも、都市生活では同じように問題に直面し、時には共に解決策を見出している。しかし社会生活においてアレヴィー派が最も同意していないのが結婚問題である、
 しかし過去の厳しい経験を引きずっても、ヴァーヒデとヒクメト・スナーは11年間結婚生活を営み、共同生活という希望の光となっている。スナーは農業を営み果樹園の中の家で2人の子供と平和に安泰に暮らしている。11年前、ヴァーヒデ婦人は働いていており、その職場のサービスバスの運転手がヒクメトであった。「知り合って6ヶ月いろいろ語り合って結婚したの」とヴァーヒデ婦人は言う。結婚するまで夫ヒクメトがアレヴィー派であることは知らなかったそうだ。「そんなこと尋ねようなんて思っても見なかった。でもまさに結婚しようという時、自分はアレヴィー派だと言われたの。私の家族が反対するのではないかと恐れていたそう。私はそんなこと構うもんですかと言って、結婚したの。」2人とも年は37歳。ヴァーヒデ婦人は(黒海沿岸の)ゾングルダク出身で、以前の結婚では夫の稼ぎで生活が成り立たなくなり離婚した。ヒクメト氏は(中央アナトリアの)チョルム出身で、同じく2度目の結婚である。つまり2人とも信仰を同じくするもの同士で結婚しながらうまくいかなかったのだ。ヴァーヒデ婦人はこう語る。「信仰が同じであっても結婚生活がうまく行くとは限らない。他のものも必要なのよ。」彼らには2人の子供がいる。15歳のムザッフェルはヴァーヒデ婦人の最初の結婚の時の子供であり、5歳のベルダンは2人の子供である。
 ヴァーヒデ婦人は信仰心の厚いスンナ派で、ラマザン期間には断食をし、日に5回の礼拝を欠かさない。木曜の夕方にはコーランを読む。ヒクメト氏は「自分はアレヴィー派の出自で、他の信仰には距離を置いてきた。」と言い、断食もしない。でもヴァーヒデ婦人は断食期間でも夫の朝食を欠かさず用意し、ヒクメト氏はイフタール(断食明けの夕食)を婦人に合わせて取る。

■意味のない偏見
ヴァーヒデ婦人はムザッフェルに信仰を継がせようとしている。ムザッフェルは必ず金曜の礼拝をする。ヒクメト氏は「ムザッフェルは自分の意思でやっている。礼拝をしたければするのは当然。」と言う。ヴァーヒデ婦人はアレヴィー派のジェムエヴィに行ったことがある。「私たちスンナ派のとはとても異なっているし、興味深かった。」と言う。スンナ派の間に広まるアレヴィー派への偏見には疑問を持つ。「ある日集まってコーランを読んでいたら、女性の教師がアレヴィー派の作った食事は食べてはならない、と言ったの。信じられなかった。そして喧嘩したわ。でもうちの近所の人は本当にアレヴィー派の隣人が作った食事を捨ててしまったそう。今にベルガンがやって来た。ヒクメト氏はベルガンを抱いて言う。「こうした偏見を我々は打ち破れなかったけど、この子達の世代は壊してくれると思う。」

<関連記事>
日常生活におけるアレヴィー派
連載(2)http://www.radikal.com.tr/haber.php?haberno=177169
連載(3)http://www.radikal.com.tr/haber.php?haberno=177183
連載(4)http://www.radikal.com.tr/haber.php?haberno=177312

********************本記事への解説********************
トルコにおけるアレヴィー派
アレヴィー派は第4代カリフのアリーを崇拝し、シーア派の一派とも言われるがその起源はよくわかっていない。一般的に神秘主義教団に分類されるベクターシ教団と共通する特徴が多く、イスラーム改宗以前のアナトリアの土俗的な信仰を色濃く残している。その信者の数はトルコの人口の1割とも2割とも言われるが正式な統計はないため不明である。儀礼や慣習の点でも、断食や一般的な礼拝を行わないため異端視される。彼らの礼拝はモスクではなくジェムエヴィという集会所で行われ(この儀式をジェムと言う)、その際に踊られる宗教的舞踏がセマーである。スンナ派のモスクが男女別席であるのが常に対し、アレヴィー派は同席で行われる。
 アレヴィー派はオスマン帝国時代から弾圧を受けており、共和国建国後もしばしば異端視されてきた。1970年代以降はトルコの各都市でスンナ派との衝突事件が起こり、多くの死傷者を出している。90年以降、アレヴィー派は独自のアイデンティティ承認を求め、協会を設立し出版、放送を積極的に行っている。また彼らは、トルコの主流であるスンナ派イスラーム政党に対し、その対抗馬である左派政党、あるいは世俗主義派の支持基盤となってきた。一方でイスラーム政党の台頭を警戒する世俗主義派の中には、90年代以降、世俗主義を重視するアレヴィー派をトルコ的なイスラームのあり方として見なす人も出てきた。

Tweet
シェア


現地の新聞はこちらから
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:大島 史 )
( 記事ID:1821 )