Türker Alkanコラム:大学における言論の自由:米大使講演中止事件によせて(Radikal紙)
2006年03月01日付 Radikal 紙

 先日、アメリカ大使が講演のために招待されていた中東工科大学訪問を断念した。学生たちが大使を部屋に閉じ込めて講演できないようにする準備をしているとの情報が入ったためである。昨年もあるアメリカ人が「CIAの職員である」という理由で講演できなかったことがあった。「中東工科大学はトルコの最高学府の一つだろう。それくらいたいしたことではない」などと考えてはいけない。9月12日クーデタの前にもアメリカ大使の車がそこで焼かれたではないか。

 その昔、「教育」を表す単語は、現在の"öğretim"ではなく"tahsil"だった。"tahsil"には「集める」という意味もある。つまり学生は「知識を集める」人のことである。誰からでもどこからでも、知識を拒絶することなく自分の知識庫をいっぱいにすることを考えるべきということだ。そして当然、集めた知識を解釈する。もし目の前にいる人物がCIA関係者だと思うなら、得た知識をそれにあわせて解釈していけばよい。しかし、「CIAの関係者やアメリカ大使から学ぶべきことは全くない」などと言えるのだろうか?
 とんでもない。学ぶことはある。それも我々の地域を好き勝手に扱い、これからも扱い続けるであろうアメリカである。その責任者の口からアメリカの政策の意図を聞けるチャンスを、政治や国際関係を「学ぶ」中東工科大学の学生がなぜみすみす手放すのだろうか。理解に苦しむ。

 「だが我々に真実を語るわけがない」という人もいるだろう。おそらく、その通りではある。政治家や外交官は(普通の人でさえも)真の意図を常に全てさらけ出すか? そんなはずはないだろう。しかし大学生のすべきことは、言われたことを分析して真実に近づくことではなかろうか。それもせずに相手を黙らせるということは、その学生自身が分析能力や理解能力に自信がなく、そして相手の説得力をあまりに高く見積もっていることの証左以外の何者でもない。

 一昨日、アンカラ大学でも似たような場面に遭遇した。国民教育省ヒュセイン・チェリック大臣が講演のため同大学に招待されたところ、学生の抗議に遭い講演を妨害されたのだ。その学生たちにとっては、国民教育相から学ぶべきこと(つまり「集めるべき知識」)は何もなかったのだろうか? 大臣の意見に不賛成だとしても、もっと他の方法で表わすことはできなかったのだろうか? たとえば、とりあえずは黙って大臣に話をさせ、それから学生たちが質問したり、自分の意見を述べたりすれば、全ての人にとってもっと有意義になったのではないだろうか。

 アメリカ大使でも公正発展党の大臣でも、右派でも左派でも、イスラーム主義者でも無神論者でも、人を無理やり黙らせようとするのは間違っている。それは暴力なのだ。ましてや大学の学生(つまり知識を集める人々)には全くふさわしくないやり方である。

 その方法には終わりがない。今日あなたが他の誰かを黙らせれば、明日は他の誰かがあなたを黙らせる。そしてあなたの口を閉じさせた人に言う言葉は消えてしまう。
 しかし、大学の存在意義はまさに完全な言論の自由にある。アメリカ大使や国民教育相を黙らせた人たちの言い分はこうだろう。「言うことははじめからわかっている!」
 本当にそうだろうか?
 また、仮に言うことが先にわかっていたとしても、発言者を黙らせる権利は誰にもない。特に大学では。

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( 翻訳者:宇野陽子 )
( 記事ID:1989 )