Ertugrul Ozkok コラム:バスマラを唱えることの矛盾と意味 (Hurriyet紙)
2006年04月14日付 Hurriyet 紙

昨日、私はすべての新聞に注意深く目を通した。誰も奇妙に思わず、私が今問おうとしている問題を誰も自分自身に問いかけなかったようだ。

先日、イスタンブルでイスラム会議機構(OIC)議会連合の開会式があった。あなたはお気づきになられただろうか? タイイプ・エルドアン首相は、OICの会議の開会式で演説を始める際、バスマラ(「慈愛あまねく慈悲深きアッラーの御名によって」という定型句)を唱えなかった。トルコ大国民議会のビュレント・アルンチ議長も、演説を始める時にバスマラを唱えなかった。

しかしエルドアン首相は、(先月訪れた)スーダンでは、「慈愛あまねく慈悲深きアッラーの御名によって」と言って演説を始めていたのであった。


さて、ここに1つの重大な矛盾がある。
エルドアンがスーダンで演説したのは、「アラブ連盟」の会議であった。すなわち、一堂に会した国家の首長たちは、ムスリムとしてのアイデンティティ以上にアラブのアイデンティティに依拠して演説していたのだ。

さらにもう1つの矛盾。会議に参加したアラブ諸国の中には、相当数のキリスト教徒住民が存在する国もある。例えば、エジプトでは人口の20%以上がキリスト教徒である。シリア、イラク、ヨルダンなどの国々にもまた、無視できないほど多くのキリスト教徒がいる。
ヨルダン国王の葬儀が行われたとき、私はアンマンにいた。そこでは、アザーン(イスラームの礼拝への呼びかけ)の音とほとんど同じ位の大きさで、教会の鐘の音が聞こえてきた。こうした国々にはキリスト教徒の大臣のいる国もあるほどだ。


トルコ共和国の一首相が、アラブ人でさえ口にせず、宗教的なアイデンティティを持って集っているという姿勢を示さなかった場において、「慈愛あまねく慈悲深きアッラーの御名によって」という言葉で演説を始める意味はあったのだろうか?

私にしてみれば、その意味はなかった。トルコ共和国のように、宗教と国家の仕事をそれぞれ完全に区分している国家の首相がこのようなことをすべきではなかった。


さて、先日の話に戻ろう。会議の名は「イスラム会議機構」である。すなわち名前に「イスラーム」という単語が入っている。出席した国々は「イスラーム的」特質を持つことにより集まっていた。しかしエルドアン首相は今回、演説を始めるとき「慈愛あまねく慈悲深きアッラーの御名によって」とは言っていない。

それは何故か。会議がトルコで開かれたためだろうか。もしくは、スーダンでしたことは間違いだったと思ったからだろうか。私の考えでは、先日の振る舞いは正しかった。トルコ共和国の公的な代表者は、国際会議の席上、イスラーム的なトーンの色濃いこの種の儀礼を行わないことが必要である。

本来の問いに戻るが、エルドアン首相、あなたはこのように振る舞いつつアラブ諸国の共感を集めるおつもりなのか?例えば、ハマス、それも軍事部門の一員をトルコに招待することは、アラブ諸国の政府にそれほど歓迎されただろうか?仮にそうだったとしたら、各国ともハマスを招待しただろう。

ところが、各国は個別にはこれをあえてしようとしなかった。せいぜいアラブ連盟機構の会議には招待したかもしれないが、実際にはそれもしなかった。


私が言っているのは、エルドアン首相はこの種の「イスラーム的象徴主義」に重きをおくことでは、穏健なアラブ諸国首脳たちの共感を集めることはできないということだ。体制内部の過激な反対派の共感を集めるのが関の山だろう。

最後に、エルドアン首相に心からの善意をこめて、次の忠告をしておきたい。外交の場でのこうした突飛とも思える奇行は、そのうち周りに(リビアの)カダフィ大佐のようなイメージを与えることになりかねませんよ。

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( 翻訳者:幸加木 文 )
( 記事ID:2208 )