Haluk Sahin コラム:自由の敵か味方か?(Radikal紙)
2006年06月10日付 Radikal 紙

トルコがEUに加盟するか否かという問題については、さまざま考え方がある。キプロス問題の解決に関してもそうであるし、イラク、イラン、アメリカ、そしてアラブ諸国の件でもさまざまな見解を表明することができる。経済的見解についても、宗教的信仰についても、民族的ルーツについてもまた然りだ。
どれ一つの問題についても意見が一致しない、という状況も考えられる。
しかしいつか、我々には次のような根本的な選択しなければならない日がやって来る。それは、自由の味方をするか、敵に回るかという選択である。
歴史を通じて、最も危機的な時点で、人類と個々の人間の眼前に現われた根源的選択はこれであった:自由の味方をするか、敵に回るか?
時代時代において最も頑なに問われた「英雄であること」を試すテストもこれであった:自由の味方をするか、敵に回るか、答えよ。

数日前、ペリハン・マーデンの裁判によって、トルコの全知識人にこの問いが問われることとなった。さあ、あなたは自由の味方をするのか、敵に回るのか、と。
そもそもの問いがこれであった。知識人が問われたのは、「良心的兵役拒否者に味方するか否か?」でもなければ、「兵役が好きか嫌いか?」でもなく、「クルド問題をそのように解決するか、もしくはこのように?」でもなかったのだ。
自由の味方をするのか、敵に回るのか、答えよ、ということだった。

この問いに対して出された回答によれば、人々は(マーデンと同じ)おのおのの立場に相応の意見を表明した。多くの問題でペリハン・マーデンとは大きく異なる考えを持つ詩人、アタオル・ベフラムオールは、自らにふさわしい立場をとった。ジュムフリイェト紙の論争好きな執筆者、ヒクメト・チェティンカヤは、昨日出された「好もうとも、好まざるとも・・・」というタイトルの素晴らしい記事を通じてこれまでの立場を守った。
二人とも上の問いには「私は自由の味方だ」という回答をした。彼らは、ナームク・ケマル、テヴフィキ・フィクレト、ナーズム・ヒクメト以来の伝統に従った、名誉ある立場を継承したのだ。
昨日私が見たところでは、全く異なる経歴を持つアフメト・ハカンも、ヒュッリイェト紙で「トルコはあなたによってはずかしめられている」というタイトルの記事によって、二人と同じ立場に立ったようだ。

こうしたことには枚挙にいとまがない。思想的混乱に終止符が打たれ、立場が改めて表明されている。思想が混乱していた時代には、何と奇妙なことが起きていたことか:「汎トルコ主義を望むのか、それともイスラーム主義をか?」
どんなに全ての問題で異なる考えを持っていても、この根源的問いには同じ回答をしたに違いない人々が、互いを疑いの目で見始めていた。
自由の敵はこうした状況を見てチャンスだと思ったのだ。
この国の自由に味方する人々や、新聞記者、作家、知識人を中傷、侮蔑し、彼らにつばを吐き、(反対の)スローガンを浴びせかけた。
そして今また、トルコにその問いを突きつけたのである。
さあ、あなたは自由の味方なのか、それとも自由の敵に回るのか?どちらの側に味方するのか?

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( 翻訳者:幸加木 文 )
( 記事ID:2676 )