[知性に関する]諸立場の[統合的]踏襲 シャルグ紙
2006年06月27日付 Sharq 紙

2006年6月27日付 シャルグ紙

[ハミード=レザー・アバク]
 何故アーヤトッラー・サーレヒー・ナジャフ=アーバーディー氏について取り上げねばならないのだろうか。サーレヒー氏の業績が如何なるものであった為に、今日、我々は氏について思索し、文章を書き、そして熟慮しなければならないのだろうか。あるいは、ある批判者たちの言葉を借りて氏の批判を行ったりしなければならないのだろうか。

 文化人の間では、如何なる学識者であっても、その死に際しては、「汝ら故人については、その長所をもって言及せよ」という言葉に従って、その人の人物的特徴と、学問的長所を述べ、陥穽や短所については目をつぶる事が慣例となっている。我が国においても「追悼」という表現は、根本的には、そのように定義されている。追悼式において、故人について批判がなされたり、その意義や立場について疑義が投げかけられる事は、殆ど無い。しかし、サーレヒー・ナジャフ=アーバーディー氏は、自ら先頭に立って、[こうした]形式的な社交辞令と対立し、また戦って来た人物であった。逝去後およそ40日目を迎える日にここで氏について書く記事が、やや[氏への]反対の入り交じったものとなるのはそのためである。

 サーレヒー・ナジャフ=アーバーディー氏の諸思想を擁護する人々は、サーレヒー氏の『志向』は時流や人々の無知が原因となって看過され続けているので、逝去後40日とう節目の日に、サーレヒー氏の道を追随する者の不在は何にも増して一部の思想史の不毛化へと帰結するという点が人々に認められるように可能な限り努力し、強調しなければならないと信じている。ところで、サーレヒー・ナジャフ=アーバーディー氏の志向とは如何なるものであったのか。[そもそも]「志向」という語を正確に解釈した場合、氏の諸々の活動は「将来において実現する事が確実な目標を、本質的に見据えている」という、その語の[意味する]枠の中で定義され得るのだろうか。

 サーレヒー氏の志向は「理知主義」であったと専ら言われている。サーレヒー氏の人物的特徴を考える際に、氏の勇敢さ、毅然さを考慮に入れるならば、理知主義は、この宗教的学識者の最も重要な知的特徴となろう。しかし、サーレヒー氏の理知主義は、氏の思想体系の中でいかなる意味を持つものなのだろうか。この問いについて解答を与える事により、第一の問いについて思索するきっかけが得られ、またサーレヒー氏の志向の限界を明らかにする事が出来るのではないかと、私は考える。
我が国には、「知性/理性」*1に関する議論の長い歴史がある。我が国の哲学者や思想家たちは、常にこの概念と自らとの関係を明らかにして来た。興味深いのは、知性/理性を擁護する者も憚ることなく頑固に批判する者も、知性/理性というものに関わる以外に、自身の議論を展開する術がなかった、という点である。

アリストテレス的「普遍知性(=第一知性)」や、[その下に広がる]9層から成る知性を信じる者たち*2は、知性という概念に関わっていたのであるが、まさにそれと同程度、「個別的知性(個々人が有する知性)」が神との合一を妨げる最も根源的な覆いであるとする神秘主義的教えを奉じる者たちがは、[イスラーム哲学において普遍知性を論じた第一人者]イブン・スィーナーに擦り寄る事を避け、顕現した諸光でもって心を照明すべきであると命じて[知性という概念に関わったのである]。
これら2つの集団に加えて、法学者集団団も忘れてはならない。彼らもまたさなぎのように自己を変性させて、理性について法学者独自の解釈を行い、他の2つの集団と肩を並べた。それ故、「全ての民族は、自身のもとにあるもので以って、それぞれ喜びを得ている」[と言われるのだ]。

 驚くべき事は、何千何百年という長い歴史において法学者、神学者、そしてイスラーム神秘主義者たちの間で起こった論争のうちの多くは、この知性/理性という脆弱な語彙についての数ある定義を止揚統一しなかった事に起因するという点であり、もしそのような事が行われていたなら、[知性/理性について論じてきた]諸々の思索、熟慮の助けによって、[知性/理性という概念は、]まるで体格が良く、永続的な支配を行うスルタンのように、全ての論争の上に立ち、これを統括していた事だろう。

 しかしながら、法学者たちの間では、この論争は別の形をとって現れた。すなわち、[他集団との論争という形ではなく、]同一集団内部での論争――但し、ここでもその対象は理性である――という形である。[理性という]この「道具」の利用の仕方や、法学的推論におけるシャリーアとの適合性、更にその[理性利用の]必要性[といった問題]は、法学的に論争の対象となる諸問題を惹起し、それが原因となって、理知主義と明文主義との間には、普遍的な分裂が起こったのである*3。
サーレヒー・ナジャフ=アーバーディー氏は、まさに[法学上の理知主義と明文主義との論争という]こうした伝統の中で生まれ育ったのである。法源*4と向き合う際にであろうが、歴史上の諸々の主題に関して思索する際にであろうが、氏の諸々の教えは、自身が理性から引き出した解釈に基づいてなされた。アフバール派*5主義の中に現れていた明文主義的伝統に対する、氏の批判的態度もまた、まさにこれに基づくものであったのだ。サーレヒー氏の擁護者たちが誇るところのものもまた、我々の法学的、歴史的伝統に対する氏の批判的態度や、ごくわずかな者しか踏み込んでいない領域へと歩を進めるという[態度]に由来するのである。

 しかし、今日我々は知性/理性という語で何を意図しているのだろうか。我々の時代において知性/理性と名付けられるところのものは、サーレヒー氏が意図するところのものと同じなのだろうか。今日の世界における理知主義的諸体系は、我が国の哲学者や神学者、法学者たちが、それについて論争を繰り広げていたところの個別的知性(個々人が有する知性)に基づいてはいないのだろうか。
サーレヒー氏の弟子の一人は、「ある日、私は『もし誰かがあなたが行ってきた歴史的諸研究の全てに対して、その結論の欠陥についての論証を提示したならば、どうなさいますか』と氏に尋ねました」と伝えている。[それに対する]氏の答えは、「私の[導き出した]結論全てを壁に投げ付けよう、もし論証が提示されるのであれば」というものであったという。

 今日、人はこれ程までに「歴史」から自由な状態で、論証というものに対して屈服する事が出来るだろうか。そもそも、アリストテレス的意味での論証を、新たな世界において提示する事は、いったい可能であり、いったい我々の現在の問題を解決してくれるのだろうか。

 サーレヒー氏の理知主義的言述と、今日の哲学者や理知主義的(合理主義的)社会学者が理知主義(合理主義)と名付けるところのものとの間の直接的な関係の立証は、不可能ではないにしろ、困難な問題である。それ故、サーレヒー氏の教えを今日の世界における宗教的知識人たちにとっての志向へと変える事は、困難ではないにしろ、立ち止まって再考してみる必要のある点である。

 サーレヒー・ナジャフ=アーバーディー氏の諸思索の、法学的、更には社会学的ですらある諸々の業績を否定することは不可能である。思想史、さらには宗教的、政治的活動における氏の威厳や高みは保持され、賞賛され続ける事だろう。しかし、新たな宗教思想家たちを介して、氏の「方法」が利用され、そして我々と新たな世界との関係を説明する為に氏の「一宗教のにおける理知主義」が模倣されることが望まれる。そして、その実現の可能性は、かの論敵の無いスルタン――即ち知性/理性――を以って測られるべきなのである。



*1 原語では「アクル'aql」。この語は、法学と神学では、神が人間に賦与した理性(reason)を意味し、イスラーム哲学においては、ギリシア語の「ヌース」の訳語として使われ、思惟・知性(intellect)を意味する。ここでは文脈によって理性、知性と訳し分けた。

*2 イスラーム哲学におけるアリストテレス解釈は新プラトン主義の影響を大きく受け、万物は「一者」から段階的に発出するという流出論として理解されている。ここでは、新プラトン主義的流出論を導入し、「十知性論」と呼ばれる知性論を展開したファーラービー(870頃-950)やイラン系のイブン・スィーナー(980-1037)に代表されるスコラ的哲学者の事を指している。彼らの流出論によれば、神は自分自身について思惟する。この思惟行為から第一知性と呼ばれる知性体が流出する(この思惟行為こそが、創造であるとされる)。第一知性は、その始原と、自らを存在へと必然化する己の始原と、仮に始原の外にあると見なされる自らの存在自体の純粋に可能的なものとをそれぞれ凝視する。この3つの凝視からそれぞれ第二知性、最高天の霊魂、最高天の超元素的なエーテル的物体が生ずる。同様にして、知性体は第十知性まで生じ、天は恒星天、土星天、木星天、火星天、太陽天、金星天、水星天、月天と順次生じて行く。この第十知性は能動知性とも呼ばれ、上に出て来た「個々人が有する知性」に働きかける。そして諸天は、それぞれの上位の天に対して(月天は水星天に対し、水星天は金星天に対し)、自らに無いものを見出し、これに近付こうとする。こうして宇宙の回転は、常に癒される事の無い愛の渇望の結果として表象される(cf. 『岩波イスラーム辞典』「アリストテレス」、アンリ・コルバン『イスラーム哲学史』黒田壽郎・柏木英彦訳、岩波書店1974年、203-204頁)。

*3 イスラーム法学において、コーランやハディースといった典拠から特定の方法論によって法規定を導き出す営みをイジュティハードというが、自由なイジュティハードの実践を批判し、コーランやハディースの字義的解釈に従う潮流は古くから存在し、両者の間には常に緊張・対立があった。
 スンナ派では、法学派の形成・発展期にイジュティハードを展開して詳細な法規定が作られ、アッバース朝末期までに四大法学派が確立したが、各法学派の安定期に入るとイジュティハードの機能が限定されていき、(ハナフィー派を中心に)「イジュティハードの門は閉ざされた」との言説が優勢となった。だが18世紀のワッハーブ運動や19世紀の改革思想においてイジュティハードの有効性が唱えられ、20世紀にはスンナ派の間でもイジュティハードの実践を支持する派が増えてきた。
シーア派では、この対立は、イジュティハードに依拠するウスール学派とそれに反対するアフバール学派の対立として11世紀以来続き、17世紀には後者が隆盛したが、19世紀に前者が最終的に勝利した。イランの文脈においては、理知主義と明文主義の分裂とは主にシーア派のこの2学派間の論争を指し、サーリヒー氏の理知主義的立場はシーア派内のウスール派の伝統に基づくものである。(『岩波イスラーム辞典』「イジュティハード」参照。)

*4 法解釈を行う際に典拠となり得るものの事をいい、スンナ派四大法学派(ハナフィー派、マーリク派、シャーフィイー派、ハンバル派)においては、共通してコーラン、スンナ(預言者ムハンマドの言行)、イジュマー(合意)、キヤース(類推)が法源として認められるが、シーア派のアフバール派はスンナのみを法源とし、ウスール派はコーラン、スンナ、イジュマーと理性(アクル)を法源とする。

*5 宗教法上の根拠を、伝承、とくにイマームからの伝承(アフバール)に求めるシーアの法学派。伝承学派ともいい、法の演繹を否定する点に特徴がある。アフバール派は対立するウスール学派ととともに11世紀頃からシーア派の主要な学派として存在したが、完成した学派として法学界を風靡するのは、17世紀のムハンマド・アミーン・アスタラーバーディーからである。しかし、19世紀中葉になると、ワヒード・ビフバハーニー率いるウスール派がアフバール派を駆逐し、主流学派となる。このウスール派は法の適用に際して伝聞証拠の伝承にではなく、知的証拠となる法学者の論理的推論に基づいて法を演繹するという点に特徴があり、現代イランの法学者は、一般にこの学派に属す。(cf. 村田さち子「アフバール学派」『岩波イスラーム辞典』54頁;「ウスール学派」197-198頁)。


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( 翻訳者:中西悠喜 )
( 記事ID:2891 )