ジーコ、フェネルバフチェの監督に就任決定(Milliyet紙)
2006年07月05日付 Milliyet紙

 100周年を迎え、次期監督を探していたフェネルバフチェは、日本代表監督を辞任したアルトゥール・アントゥネス・コインブラ(ジーコ)と合意に達した。当初ポルトガル代表監督のブラジル人スコラーリを検討していたフェネルバフチェのフロント陣は、説得のために相当の骨折りをしたが、スコラーリは年間700万ユーロという信じられない額を要求した。

■ダウム前監督時の条件と同様
 スコラーリと報酬問題で折り合いのつかなかったフェネルバフチェは、一昨日ジーコの代理人とマネージャーをイスタンブルへ招いたことを明かした。

 運営委員会の後、ジーコのマネージャーと交渉の席に着いたフェネルバフチェのフロント陣は昨日、クリストフ・ダウム(前フェネルバフチェ監督)と同じ条件で合意に達したと述べた。「白いペレ」の愛称で知られるジーコ新監督には、年棒200万ユーロ、優勝した場合は100万ユーロのボーナスが支払われることも分かった。

■エメルソン獲得を要求
ジーコが今日の14時30分にトルコに到着し、パレイラ(現ブラジル代表監督)をサポートしてきたモラシー・サンタナとエドゥーをコーチとして同伴してくることが分かった。ジーコは契約書にサインした後、サマンドゥラで選手らと顔合わせをし、金曜日にデレアウズ練習場で行う対イネギョルスポルとのプレシーズンマッチでチームの状態を見る予定。

ジーコがフェネルバフチェのフロントにファーストステージ中にユベントス(セリエA)の攻撃的MFエメルソン獲得を要求したことも明らかになった。

■スポーツ大臣ジーコ
 サッカー界で卓抜したリーダーシップを発揮したことにより、監督になる以前に祖国でスポーツ大臣を努めた。活躍の場をブラジルから日本に移し「サッカーの神様」の称号を獲得し、鹿島には銅像も建てられた。

 ジーコはサッカー史上ワールドカップ優勝経験のない最も偉大な選手であるといわれるが、その偉大さはワールドカップ優勝を成し遂げた選手らにひけをとらない。
ジーコは他のブラジル人スタープレーヤーと同じく1953年にリオ・デ・ジャネイロのキンチーノで生まれ、貧しいなかで育った。しかし、他のスタープレーヤーと違い、やせた色白の少年だった。80年代初頭にフラメンゴで3回のリーグ優勝とインターコンチネンタルカップでの優勝を経験し、78年と82年にはワールドカップ出場、83-85年イタリアリーグへ移籍。ウディネーゼでプレーした83-84年のシーズンでは、出場回数がプラティニより6試合少ないにもかかわらず、同数となる19ゴールをあげた。

■日本では銅像が
 86年ワールドカップの対フランス戦でのPK失敗から、彼のサッカー人生は終結に向かった。通算1180試合826ゴールを記録。背番号10とカリスマ性は、ブラジル人歌手のジョルジ・ベンジョールの「Camisa 10 da Gavea(ガーヴィアの10番)」という歌に表現されている。

 その後ブラジルの総選挙を経てフェルナンド・コロール・デ・メロ政権のもとで1年間スポーツ大臣を務めた。1993年には日本の鹿島住友のオファーにより政治家生活に別れを告げて、彼の愛した芝のグランドに戻ってきた。2年間プレーした後、同じチームで監督を始めた。日本サッカー界に彼がもたらした革新性は、鹿島スタジアム前に銅像が建つほどであった。

 日本人がジーコに寄せた愛情は強く、02年のワールドカップ後にジーコは代表監督に就任した。06年ワールドカップ予選でオマーン相手に精彩を欠いた采配がいく度もの危機を生んでもなお更迭しないほどに、日本人は彼に対して礼儀正しかった。ワールドカップ本選でもジーコを監督として戦った。
 これまでに率いてきたチームで攻撃的サッカーを取り入れたジーコは、4-4-2システムを信じていた。しかし、選手との関係は必ずしも良好というわけではなかった。ワールドカップで稲本と小野をスタメン起用しなかったために多くの批判を浴びた。監督の経歴が日本に限られていることは深刻なハンディキャップである。


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(翻訳者:塚田真裕)
(記事ID:2911)