Taha Akyol コラム:権威主義かリベラルか、世俗主義の行方 (Milliyet紙)
2006年09月08日付 Milliyet 紙

最高裁判所のオスマン・アルスラン長官は、法廷年度の年頭スピーチの中で、世俗主義の定義をした。アルスランの定義と、憲法裁判所による世俗主義の定義の間には、いくつか異なる点がある。

アルスランの定義は次の通りである:「世俗主義とは、宗教が国家的事項に、国家が宗教的事項に干渉しないこと、国家と宗教が互いに分離していることを意味する…」。
アルスランは、この定義から始めて、世俗主義の2つの要素を強調している。1つ目は「政治的」性質を持つことである。アルスラン曰く、宗教は国家を運営できず、国家は宗教を管理できない。国家はすべての宗教に対して等距離にある。そもそも宗教は自然人(個人)に関する事柄であり、「法人の宗教」「国家の宗教」などあり得ない…。
世俗主義の2つ目の要素は、「個人の内的世界」と関わっているということであり、宗教と良心の自由を含んでいる。アルスランのこの定義は正しく、憲法第24条にも適合している。憲法第24条も、世俗主義を「国家」に焦点を当てたものとして定義している:「国家の、社会的、経済的、政治的もしくは法的な基本秩序は、部分的であれ、宗教に依拠させてはならず、政治的目的で利用されてはならない…」。というのも、政治もまた国家に焦点を当てた活動だからである。

■権威主義的世俗主義

一方、憲法裁判所はというと、「宗教的事項と国家的事項の分離」という形での世俗主義の定義を「狭い」と判断し、社会に焦点を当てた定義づけをしようとしている。それだけには飽き足らず、世俗主義は「それぞれの宗教の特徴に応じて」定義づけられるだろうと述べている。
「古典的な意味での、宗教的事項と国家的事項の分離という形での定義に対し、イスラーム教とキリスト教の持つそれぞれの特徴の相違から必然的に、わが国と西洋諸国で生じた状況と現れた結果も異なるものになっている」。(判決番号:1998/1)
西洋の世俗主義の歴史を軽視したこの見解を受け入れるならば、トルコは人口の大多数がキリスト教徒にならなければ、西洋的な(すなわちリベラルな)世俗主義に決してめぐり合わないということになるはずだ!
憲法裁判所は、自由によって世俗主義が損なわれることを恐れており、「世俗主義を自由の犠牲にしない」といった「簡潔な」理由により、権威主義的な世俗主義という見地に立っている。(判決番号:1989/12)
(憲法裁判所元長官の)イェクタ・ギュンギョル・オズデン同様、セゼル大統領も演説でこの権威主義的世俗主義の主張を続けている。

■リベラルな世俗主義

憲法裁判所の判決では、「文明、自由、知識、理性、合理主義、現代性、現代的生活哲学」のような概念と世俗性との関係の説明を通して、世俗主義のこの「哲学的」内容が義務的、強制的な「法的規範」として認識されている。しかし、リベラルな民主主義では「正しい哲学」もまた強制的な規範とすることはできない。
世俗主義に関する義務的、強制的な規範は、憲法第24条にある国家に焦点を当てた定義である。世俗主義は法的には「国家」に焦点を当てた概念であり、社会的な領域は自由と多元主義の領域である。
例えば、欧州人権裁判所によれば、社会に宗教の信徒がおり、彼らが宗教的規律にしたがって生活し、プロパガンダを行うことは、世俗主義の宗教と良心の自由の定義に合致している。(参照:エムレ・オクテム『国際法における信仰の自由』p.376, リベルテ出版)
このような自由は、憲法裁判所の解釈によれば不可能である!我が国では自由の持つ「世俗化の」機能が十分に認識されていないため、「(自由は)世俗主義を犠牲にする」と考えられているからだ。
トルコは発展すればするほど、民主主義同様、世俗主義もきっとリベラルになるはずだ。

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( 翻訳者:幸加木 文 )
( 記事ID:3460 )