ボル山トンネルの開通、峠の店々を閉店においこむ
2007年01月28日付 Radikal 紙

「仕事が、まるでナイフで切ったかのように、スパッと無くなった。これほどとは予想していなかった」と話すのはボル山の小売業者。トンネル開通後、あっという間に店舗が一つまた一つと閉められていった。トンネルは村人から従業員まで、1万5千人もの人々に影響を与えた。

「ボル・トンネルの開通は冗談みたいな話だ。信じられなかった。もっと何年もかかるだろうと思っていたんだ」と話すボル山バカジャック村の小売業者は、今回の出来事が悪い夢であってほしいと願っている。しかし実際は、3日で30を超える店舗が閉鎖されていく現実を目の当たりにしている。一見するとボル・トンネルが国の経済にとって重要な役割をもつとしても、ボル山付近の村々からすれば話は別だ。ボル山には100以上の店舗があり、ここで2千人以上の人々が雇用されている。中でも最も深刻なのは付近の8つの村である。すなわち1万5千から2万人近い人々がボル山にある店舗にたよって生計を立てている。どういうふうにしてかというと、手工芸品、食肉、卵、小麦などの商品を、バカジャック地区の小売業者らに購入してもらっているのだ。購入してもらっていた、と言うべきだろう。なぜなら現在は、もうそうではない。トンネルが開通したからである。
 それでは今はバカジャック村の小売業者はどうしているのか。「バカジャック(トルコ語で『見る』という意味の未来形『見ることになっている』:訳者)から今トンネルを見ているのである」。そして行き着く先はイスタンブルへの移住である。カイナシュルからバカジャックに入るや否や、「貸店舗」「売店舗」などの看板の下がった店が並ぶさまは、まさしくボル山の小売業者の様子を表している。

 1月末であるにもかかわらず、天気は良好で気温は16度。道の右側にある「アルマンジュ・パラの家」も開いている。2階では若い男が頬杖をつきながら座っているが、他には誰もいない。車から降りようとすると、声をかけてきた。「閉まってるよ。オーナーもいないんだ」話をする気にもなれないのが一目瞭然だった。だが38歳のファフレッティン・ペルチン氏は、私が新聞記者であると名乗ると、堰を切ったように話し出した。「ここには13人が働いていたが、もう誰も残っていない。トンネルが開通した日に試算したんだが、40YTL(約3500円)の赤字が出たんで閉めたよ」。話が従業員のことになったので、もちろん失業したのだろうとわかってはいたが聞いてみた。「ところで従業員の人たちは」。彼の口から聞きたかった。返事は「彼らはただの従業員じゃない。俺たちの村の子供、友達だった。羽をもがれた気分だ」
 小売業者のネディム・ペリチン氏が先頭に立って、ある互助団体をつくったという。しかし彼自身も店を閉めた一人である。そのペルチン氏を訪ねた。そもそもトンネルが完成すればこのようなことになるのはわかっていた。それは私とてペリチン氏とて同じである。このことについて彼にも尋ねた。「まったく対策を考えなかったのか」と。彼は笑っていた。だが、まるで笑いではない何か別のもののようだった。言葉では表すことのできない何か。そんな表情が消えることのないまま、彼は簡単に説明する。「私たちにとっては冗談みたいな話だった。10年はかかると思っていたんだ。トンネルが開通した日、みんなで見に行ったよ。首相の口から「小売業者らをわるい様にはしません」というセリフを期待したが、出てこなかった。「互助団体をつくるように」という通達があったから、それをつくった。新しく整備される場所に店をもたせてほしい。国に助けてもらおうと思っているんだ。それを待っているんだ」

 そのあと「クルのところへ行こう」と、そこへ向かった。そこもまた開店休業状態のところで、開いてはいたが商売はしていなかった。ジェズミ・クル氏は5、6軒がここで商売をしていたと話した。彼らは今、首相の口からある言葉を待っている。「我々を金持ちの人々と一緒にしないでもらいたい」という。「道の向こう側での商売はもう少しマシだろう」と思っているが、間違っているようだ。アナトリア通信からの短いニュースが聞こえてきた。「トンネル開通後は、アンカラ方面へ行く車などが8割減りました」。ここで商売をすることは債務を背負うことである。

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( 翻訳者:湯澤芙美 )
( 記事ID:10014 )