Türker Alkan コラム:ソコク・・・ディンク・・・ネコガナク・・・―「共感」はどこへいったか―
2007年01月31日付 Radikal 紙

さて、極めて単純なとんち話をひとつ。

司令官が兵を整列させ、最前列にいたメメドに尋ねた。
「さあ、メメド、言ってみたまえ。祖国とはなにか?」
「我が母であります、閣下!」
「よく出来た、メメド。では、アリ、言ってみたまえ。祖国とは何か?」
「メメドの母であります、閣下!」

数年前、このとんち話を聞いていたある大学生が話した人の顔を見て、「えぇ、続きは?」と言うのを見て、私はひどく驚いてしまった。とんち話を話す場合に最悪な成り行きは、相手にどうして笑う必要があるのかを説明しなければならなくなることだ。話のカラクリを説明すれば聴衆が大笑い――なんてのは望むべくもないことでしょう。たとえ笑いが起きても、すでに興ざめしてしまっています。

フラント・ディンク氏の葬儀の際に掲げられた「我々は誰しもアルメニア人だ」というスローガンが原因で出てきた反論も、少々こういった類のものだった。大の男たちが、こんなふうにぶつぶつ洩らしているのが目に付いた。

「『我々は誰しもアルメニア人だ』とはどういうことだ。我々は誰しもトルコ国民ではないのか?我々の名前だって、アフメト、メフメトではないか?」

良識ある国民諸兄は、我慢強い教師のように、その意図を解き明かしにかかった。「貴方方は間違えて理解しておられる。ここでは例えているわけです。文学的な一種の言葉遊びをしているのです。そう、いつぞやケネディ(米大統領)が『私はベルリン出身です』と述べたことがあったように、今回もそういうことです。恐れてはなりません。我々はどうあってもアルメニア人ではないのです。」

「いや、我々はアルメニア人ではない」と恐怖にさいなまれながら叫ぶ人々が、こういった説明で理解したかどうかは定かではないが、とんち話の笑いのツボを明かすことがそのとんちの持つ機微を損ねてしまうのと同様、このスローガンを解いて見せようとする試みも同様の効果をもたらした。

ハルク・シャーヒンも日曜日のコラムでダニエル・レーナーの有名な著作を引きながら、説明しようとしていた。要約すれば、次のように語っていた。「我々は誰しもアルメニア人だ、とは、ディンク氏暗殺が原因で気分を害した人々の思いを分ち合い、彼らに共感を抱く、という意味である。他人に共感できる能力は、現代化の所産である。」

その通りである。但し、ある読者からお便りを頂いた。「貴方が『ラディカル』で野良ネコについてお書きになった過去のコラムを拝見し、この便りをしたためる勇気が湧きました。数年にわたって、私達が住む地区の公園で生まれたネコたちを飼っています。(そのうち1匹は体に障害を抱えていて、2匹は自宅にいる。)そして、私に対してこの状況を批判する人がいます。そのため、外にいるネコたちには(去勢)手術を受けさせ少なくともこれ以上繁殖しないように努めています。私の伴侶はここ2年間地区の自治会長を務めているので、この件に関する批判に私と同じように考えているわけではありません。今年、自治会の改組と平行して、この批判の声は大きくなりました。つい最近の総会で、地区でネコを飼うことを禁止しその対策を講じるための権限が、新たな執行部に与えられました。人々はこの決定によって力を得て、行動に出ています。例えば、彼らはネコの餌用の容器を投げ捨てているのです。私がこのままネコを飼い続ける場合には裁判に訴えるという人まで現れました。」この読者の方は、このようなことで諦めることなく飼いつづける、とおっしゃっている。そして私にどうすればいいかを問うておられる。

私がお奨めするのは、当然、ネコたちを飼いつづけることです。こんな寒い冬場に飢えた仔ネコに同情せず不憫に思わない「お隣さん」がいることを嘆かわしく思います。しかし、同情心に欠ける人々が何と多いことか。このことについては、どうしたらいいものか、見当もつきませんが。

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:10043 )