Hasan Cemal コラム:祖父アフメトの教訓
2007年02月01日付 Milliyet 紙

家庭で、「アルメニア人革命主義者」の襲撃の犠牲となった祖父についての話を聞かされながら私は育った。

私の祖父は、ジェマル・パシャ(*)である。

統一と進歩委員会のエンヴェル―タラート―ジェマル三頭政治の一角だ・・・オスマン帝国の崩壊にも、わが国の歴史に「アルメニア人強制移住」として登場する恥ずべきページの記述にも、責任があった人物である。

一方で彼は私の祖父であり・・・

一方で彼は歴史であり・・・

時を経るにつれ、私はこの両者を分けて考えることを学んだ。蒙った痛みの応酬をしたり、両者の痛みを比べたりするのは、間違いだった。なぜなら、そういった「思い込み」が、対立や紛争の扉を開け放ってしまったのだから。社会の亀裂を生み出す種を蒔いてしまったのだ。

ゆえに、歴史のページをめくる際、歴史を綴る際、そして歴史を解釈しようとする際にふさわしい態度は、歴史から対立関係を抜き出すことではなった。全く逆で、歴史への態度は、人間を先入観にとらわれることから救うような、人間を友愛と平和へと向かわせるような感情や考え方を涵養することを保証することであった。

1973年の1月のこと。

当時私はある通信社で特派員をしていた。

つらいニュースが飛び込んできた。

アンカラ大学政治学部時代からの親友であるバハドゥル・デミルが襲撃され殺害された。バハドゥルは外交官でロサンゼルスで領事の職にあり、彼とは時々手紙のやり取りをしていた。暗殺犯は老齢のアルメニア人だった。

その後「アルメニア解放のためのアルメニア秘密軍」によるテロが始まった。

私の友人を含む数名の外交官が殺された。それら全てに私は憤りを覚えた。全てのこのような暗殺が恨めしく、その思いを抱えて新聞で見出しをつけ、論説を書いた。

ただ、以下のことには、十分にご留意いただきたい。

私はアルメニア人に対して何ら対立感情や敵意を抱いたわけではなかった。テロリスト、狂信者、そして自分たちの民族主義を自分たちと「同じではない」人々に対して軍旗のように掲げる輩――そういった者どもとアルメニア人とは分けて考えていた。

そういった者どもにはアルメニア人もいたしトルコ人もいた。この(「一般の人々」と「それ以外」という)両者を私は意識的に区別し、混同したことはなかった。これは私の人間観や自分が培ってきた民主的文化の当然の帰結だった。

今でもそうだが、以前から私にはアルメニア人の親友たちがいた。

フラントディンクも、そのうちのひとりだった。

彼を殺したのだ、ひとりのトルコ人が。

いや、狂信的なひとりのトルコ人が・・・

暗殺犯本人が、そして暗殺犯を育んだあの社会の風潮が、つまり自分たちと異なった人々が敵であるかのように示さんとするあの社会の風潮が、私には恨めしかった・・・その後、彼の葬列に従って私は歩いた、「我々は誰しもフラント・ディンクだ、我々は誰しもアルメニア人だ」と口にしながら・・・

なぜなら、フラントは私の愛すべき友だったし、アルメニア人も私の兄弟なのだから。なぜなら、ちょうどフラント・ディンクのように、私もトルコ人とアルメニア人の間で、そしてトルコ―アルメニア両国間で平和と友愛が実効性をもつことを支持していた。なぜなら、フラント・ディンクのように私だってアルメニア問題という難問から解き放たれたいと願っていたのだから。

しかし、こうおっしゃいますかね?深い悲しみを共有することが何にもまして人間らしいことなのではないか?・・と。

現在私への批判を目にしている。

そして驚く部分もある。

批判は、「トルコ外交官が殉職された時、貴方はどこにいらっしゃったのですか?」あるいは「殉職者の葬儀には一度も参列していないのでは?」と問うている。

蒙った痛みの応酬をしている。

これらには、フラント暗殺によってもたらされた深刻な痛みを、自らの反対側にいる誰彼の身になって思い理解しようとする文章ではなく、社会の亀裂をより悪しきほうへと煽るような文章が綴られている。

とても悔しい。

場所、場面を問わず「アルメニア人」という言葉がまたも侮蔑的なスローガンの様相を呈しつつあるこの時期に、ふさわしい信念とはなんだろうか?平和、友愛、そして安寧の扉をどうやって開け放つのか――このことを政治家やメディアをはじめ誰しもが十分に責任を感じて考えることこそが有効だろう。

繰り返す。

蒙った痛みの応酬はすべきではない。歴史のページから対立を引き出すのはたやすいことだ。記述を鵜呑みにして民族主義をもてはやすのも同じだ・・・。その一方で、難しいのは、歴史のページの記述を本来のあるべき文脈に置いてみること。つまり痛みを共有すること、更に言えば、歴史のページに記された痛み(の経験を)成熟するために生かすこと、民族主義の先入観から解き放たれるために生かすこと、なのだ。

この国土で平和、友愛、安寧と口にするのなら、難しいほうを選び、やるべきことをやろうではありませんか。



(*)ジェマル・パシャ[1872-1922]本名アフメト・ジェマル。士官学校、陸軍大学校を経てマケドニア勤務。「オスマン自由委員会」に参加し、1908年の青年トルコ革命後各種要職を歴任。本文にあるとおり第2次立憲制[1908-1918]の所謂「三頭政治」の一角を占めるが、エンヴェルとは常に緊張関係にあった。1914年に海相。のち第4軍司令官としてシリアへ赴き、第1次大戦ではスエズ運河攻撃などを指揮。終戦後ベルリンへ脱出し、その後グルジアのトビリシでアルメニア人によって暗殺された。

Tweet
シェア


現地の新聞はこちら

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:10075 )