Fikret Bilaコラム:ディンク殺害事件後の安易な単純化への危惧
2007年02月07日付 Milliyet 紙

アルメニア系トルコ国民のフラント・ディンク氏が暗殺されてからの議論は、次第に「糾弾」へと変わっていった。感情的な反応や説明が議論の中心となり、事実とその背景にある原因を分析しようという良識あるアプローチの代わりに、「根拠なき一般化」が前面に出てきた。

2つの大きな誤りがある。
1-ディンク氏暗殺に抗議する人々すべてを「アルメニア人」や「トルコ人の敵」と見なすこと。
2-ナショナリスティックな気持ちで反応を見せる人々すべてを「殺人犯」あるいは「殺人犯候補」と見なすこと。

しかし、ディンク氏の葬儀に参加し、暗殺に抗議する者がみなアルメニア人というわけでも、トルコ人の敵というわけでもない。「われわれはトルコ人、われわれはケマル〔訳注:トルコ共和国初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクを指す〕」と唱える人々が(皆)オギュン・サマスト〔訳注:ディンク氏殺害の実行犯〕ではないし、殺人犯でもない...。

この2つの誤謬に満ちたアプローチと「単純な一般化」は、社会の対立を引き起こすと同時に、本当に議論しなくてはならない問題を背後に追いやってしまう。一般化や分は知的な作業だ。知的論拠が必要となるものだ。

■知的方法
外野の声を聞くばかりで、社会学的、心理学的、経済的理由を考慮せずに「判断を下すこと」は扇動、あるいは火に油を注ぐ結果以外生み出さない。こうしたアプローチは、イスタンブルでの葬儀でデモをした人々をまとめて「アルメニア人」「トルコ人の敵」と宣告する感情的アプローチとなんら変わりがない。正しく重要なことは、事実をその原因と合わせて評価できることなのである。

誤りであることを超えて悲劇的ですらあるのは、「アルメニア人の民族的アイデンティティ」に対する「民族主義とトルコ民族主義」という議論に火が付くことだ。トルコ国籍を持つアルメニア人、ギリシャ人あるいはユダヤ人が、放っておけば「虐殺」や「集団殺戮」に遭うような脅威のもとにあるとは言いがたい。われわれを悲しませたディンク氏の殺害をみて、「虐殺」といった脅威があるかのように叫ぶのは、現実と食い違っている。

トルコ国籍を有するマイノリティが殲滅されようとしているかのように考えることは、誇張をも超えた事態である。こうした解釈、つまり扇動的な反応は、社会をさらに分裂させ、急進化させることに手をかすものだ。

■根本的な問題
ディンク氏暗殺後の展開からわかるように、我々は深刻な問題を抱えている。しかし具体的にこの問題と原因を議論する代わりに、「イデオロギー的」性格をもつ糾弾に比重が置かれた。みな「イデオロギー上の敵」を「罪人、殺人犯」と宣告することに熱心だ。憎むべき暗殺そのものよりイデオロギーに根を持つ「コミュニティ内とコミュニティ間の対立」が起きている。

はっきりしておかねばならないのは、再び政府が国家を、国家が政府を信頼していないことが明るみに出たことだ。根本的な問題と対立の一つはこれである。この問題の根本は「共和制への移行を受け入れるものと受け入れないもの」の対立まで遡及できるかもしれない。

この根源的な対立とともに、以下のことも併せて議論していかねばならない。すなわち、行き着く先が見えない、あるいは良い結果をもたらさないグローバル経済・政治の影響、国家・国民の認識を揺さぶる価値観の対立、極小民族主義が生み出す亀裂、EU加盟プロセスへの期待の薄れ、蔑視感情、急速に広まっている浮浪者的な生活様式などに注目するならば、本来何を議論しなければならないかが明らかになって来る。

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( 翻訳者:塚田真裕 )
( 記事ID:10113 )