İsmet Berkan コラム:「好機」か「危機」かは我々次第
2007年02月08日付 Radikal 紙

中国語は表音文字ではなく単語の意味を抽象化した表意文字という文字で書かれる言語だとご存知のことと思う。中国語ではfırsat(好機の意味あり:訳者)という語とtehditあるいはrisk(いずれも危機という意味がある:訳者)という語は同じ表意文字、つまり形で書かれるのである(*1)。

現実をご覧になれば、好機と危機それぞれにはそれほど大きな概念的差異はないのである。時に人は好機を手にするが、その好機を(好機であると)評価できず、結果として好機は危機へと転じてしまう。逆に危機にあっても、人はそれを好機に変えるのである。

トルコの人口統計結果は、この国をどう捉えるかの立場に応じて好機と危機を生み出している。

そう、(ここでは、)未熟で、無学で、失業と失望の中にある若年層、つまりこの国の人口の多数派について述べているのです。

この若さのエネルギーは多種多様な形で活用することができる。若者たちが否定的なナショナリズムをむやみやたらに振りかざして、合法あるいは非合法の様々なイデオロギーを掲げる組織の影響から脱却できないでいるのを、(我々は)傍目でずっと見ていることもできるし、(逆に)彼らに希望を抱かせ明るい将来がありうるのだと語り、またそういった将来を現実のものとすることもできるのだ。

その選択は、トルコ自身の手に、そしてその大部分は政権の手にゆだねられている。

御覧なさい、レジェプ・タイイプ・エルドアン首相は、根本的に有効たるべきナショナリズムとは、努力し、人々の繁栄の度合いを向上させ、国家を昨日居た場所よりもより良い今日の場所へと運んでいくものである、と口にしはじめた。

ある時以来、トルコ会議所・商品取引所連合(TOBB)のリファト・ヒサルジュクルオール代表が、アナトリアのどこそこで、「世界の大企業上位500社のうちトルコ系企業は幾つで、上位100社だと幾つあるでしょう?」といった質問を投げかけて、人が根本的に誇りうるのはこういった分野での国際的成功である、と(人々に)言って聞かせようとしてきたのはご承知のとおりである。

私が思うに、重要なのは、そして丘から麓へと波のごとく広められるべきは、このことなのだ。発言を公にしはじめてはいるが政府は遅過ぎたのだと我々は認めねばならない。

よりよいトルコを望む人々は、このことを声を大にして発言し、寄せられる批判に対して場面にふさわしい回答をすべきである。

その場合にのみ、トルコは人的基盤によって自らに示してみせた可能性を、危機から救い好機に変えることができるのである。

しかし、この好機を生かすには言葉だけではいけないのである。思い違いをしていただきたくないのだが、私は言葉が重要ではないと言っているのではない。言葉は重要だが、しかし、言葉に続いて実践を伴うことこそが、(つまり)失業のみならず教育や専門知識の欠如をも解決するために速やかに行動に移ることが必要なのである。

ご覧あれ、フラント・ディンク殺害を幇助(ほうじょ)したとして罪に問われているヤスィン・ハヤルと実行犯のオギュン・サマストは、そもそも典型的な例である。ふたりともまっとうな仕事についていなかったし、教育も受けていなかった。彼らのエネルギーがどちらに注がれたのかは明らかである。

ヤスィン・ハヤルとオギュン・サマストは非常に極端な例だということもできようし、私もそうだと思う。しかし、どうあっても、誰も武器を手にして誰かを殺めるべきではないのだ。幸薄く、希望もなく、職もない広範な大衆の存在には限りがない。そのような人々の圧倒的多数が犯罪に手を染めていないことは、トルコにとって「(幸運の)賜物」であると考えるべきである。

肯定的な民族主義を社会に行き渡らせることは、その他多くの問題と同様にアタテュルク自身が行った業績のうちのひとつである。「トルコ人よ、誇れ、努めよ、信ぜよ」とは彼の言葉であり、私の(若い)頃には多くのアタテュルク像の足元にはこの言葉が記されていた。信頼し、努力し、そしてその結果に誇りを持つことは、今日の我々がほとんどやっていないことである。

しかし残念ながら、(この社会の現状は)昨日チュルケル・アルカンがそのコラムでベドゥリ・ラフミの詩篇から引用していた「おお、たわわな乳房で小人(こびと)を育む奇妙なわが故郷よ」という一節(*2)がその有効性を保ったままである。

この社会は、信頼され、その社会内部のエネルギーがふさわしい方向へ注ぎなおされるのを待ちわびている。

しかし残念ながら、日常の政争の影響下にある政府、そして軍部を含めた国家機構と政治機構は――全く反対に――不信極まりないのである。


*1:筆者がどの「表意文字」(=漢字)を念頭に置いているのかは明示されていないが、トルコ語の単語の意味から推測すると「機」であろうと推測できる。
*2:ベドゥリ・ラフミ・エユボウル(1913-1975)画家であり詩人。本コラムに「再」引用されている一節は、“İstanbul Destanı”(イスタンブル叙事詩)末尾の一節である。

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:10123 )