Turker Alkan コラム:「メルスィンに注意!」の記事を見て思うこと
2007年02月15日付 Radikal 紙

昨日の本紙の見出しを見て怖くなった:見出しには「メルスィンに注意!」とあった。「愛国者(※1)や民族主義者を自認する市民社会組織が民族差別をけしかけている」。
「市民社会組織は民主主義の基盤を形成する」と言う政治学の本が必ずしも真実を言い当てていないことをこのようにして知ったことになる。民族差別を助長することに、民主主義の面からも愛国主義の面からも擁護できる点などない!
記事を読むと、再びメルスィン人としての自覚が呼び覚まされた。確かにここ数年はメルスィンに帰っていないが、人口4万人の古い港町からどうして百万人もの人口を抱える怪物が生まれたのかはよく分かっている。
メルスィンは、都市化の観点からは最も悪い見本となる街の1つである。信じられないほどのお金をつぎ込んで1つの都市を住むことのできない状態にした古典的なモデルであるに違いない。このことを言うときにいずれかの政党あるいは市長を名指ししているわけではない。皆に少しずつ責任があるに違いない。
記事では、クルド系の市民がメルスィンの(人口の)40パーセントを占めていると書かれている。これはもちろん高い割合だ。しかしメルスィンには過去にもさまざまな民族的出自を持つ人々が住んでいた。アラブ人や黒人、クルド人と同様に、キリスト教徒のアラブ人やイタリア人、ユダヤ人もいた。2つの教会が活動していた。
私の父は服の仕立屋だった。(父の店に)アキフ親方という名前の、長身で少し細身のクルド人の職人がいた。アキフ親方は興奮気味にシェイフ・サイトの反乱について話したものだった:「ムスタファ・ケマルの乗った飛行機を打ち落とすために山の頂上に上って、棒で飛行機をたたこうとしたもんだったよ!」。自分の言ったことに親方自身も笑っていた。誰も店にやって来てアキフ親方のことを検察に訴え出ようなどとは思い及びさえしないものだった。というのもその世代は血を流す戦争を体験し、悲惨な出来事を経験した人たちから成り立っていた。日暮れ時の涼しさの中、父の店の前に集まってチャイをすするとき、総動員(※2)や第一次世界大戦についてとめどなく話すものだった。
メルスィンでは異なる宗教や民族が集団をつくるという理由で摩擦が起きたり緊張や社会不安が生じることはなかった。オレンジや桃、レモンの木や、バラやジャスミンの若木に囲まれた家々は、粗末なものではあっても街の生活にヨーロッパ的な雰囲気を感じさせた。女性は一人で、頭を覆い隠す必要を感じたり不愉快な目に遭うことなく、商店街や市場に買い物に出かけたり、子どもを海辺で遊ばせに連れて出たものだった。
民族や宗教が違う人同士は確かにあまり会って話をしたりはしなかったが、互いに干渉もしないものだった。もしかしたらオスマン朝時代から残る習慣だったのかもしれないが、真相はいかに?
けれどもメルスィンの人々はお墓を同じ場所に作ることには差し障りを感じなかった。(世界の多くの場所で墓地は激しいいさかいの種となった)。今でもメルスィンの墓地にはユダヤ教徒とキリスト教徒のために割り当てられた場所があるはずだ。永遠に同じ墓地を共有するであろう人々が(この世で)一時的に同じ街を共有しないのは少々おかしく思えないだろうか?
私が言っているのは、そうした昔のメルスィンが行きつ戻りつしながら今のこのような状態になったということだ。「トルコ人の親から生まれてもいないくせに、ここで普通に暮らせると思うなよ」と言いそうなほど、正気を失った連中の住んでいる場所になったようだ。
これは「進歩」なのだろうか、私には分からない。身の毛のよだつ思いがする。


(※1)原文ではkuvvaci=トルコ解放戦争時の国民軍(Kuvay-i Milliye)を支持する者という意味から。
(※2)アタテュルクの軍勢がギリシャ軍と戦った1921年のサカリヤ川の戦いの際、兵員不足から20~22歳の民間人の男性を兵士として徴用したことを指す。

Tweet
シェア


現地の新聞はこちら

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:10190 )