キルクークは新たなサラエボかー北イラクのシーア・スンナ派テュルクメン人事情を取材
2007年02月20日付 Milliyet 紙

トルコでは、イラクでテュルクメン人は「一体」をなしていると考えられている。しかし実際はそうではないということを、我々は以前に伝えようと試みた。実際に、イラクにおけるテュルクメン人の現実を知るほかの方法は存在しないのだ。そうでないと、イラクで2005年12月に行われた総選挙でテュルクメン人が得た結果にアンカラの政府が感じた失望が、将来再現するのは不可避とみられる。

事実その総選挙で、シーア派アラブ人政党から出馬したシーア派テュルクメン人がイラク国会に5名もの議員を輩出しようことになろうとはトルコでは最後の瞬間まで予想されていなかった。政府の支援は、国会に結局1名しか議員を送り込むことのできなかったイラク・テュルクメン戦線(ITC)に対して行われた。このことからして、トルコ国内でシーア派テュルクメン人がほとんど知られていないことを証明するには十分であった。

キルクークやアルビルで行った面談で、シーア派テュルクメン人の現実に関する情報を収集する際、我々は興味深い事実を知ることになった。その筆頭が、シーア派テュルクメン人が、イラクのテュルクメン人口中で占める数と関わるものだ。他のあらゆる事柄同様、このことでもさまざまな数が飛び交っているのを我々は知った。米軍がイラク軍の支援を受けて血なまぐさい作戦行動を行ったテュルクメンの都市、タル・アファルを取り上げるだけでも、この事実はより明確なものとなるだろう。

■ 実数はまったくの謎

シーア派テュルクメン人は、タル・アファルの町で自身らがテュルクメン人口の70%を占めていると主張する一方、スンナ派テュルクメン人はそれとは正反対に「70%がスンナ派、30%がシーア派」と述べる。こうした混乱は、シーア派テュルクメン人が多く居住するトゥズフルマトゥやタヴックといった町にも当てはまる。

我々は、アルビルにおいて最も水準の高い教育機関の一つに挙げられ、「光明高等学校」をも組織に組み込んだ「フェザ教育社」のタリプ・ビュユク代表取締役へこの質問をぶつけた。北イラクに居住し、我々が想定した通り「宗派とのつながり」を持つトルコ人であるのなら、この人物は答えを知っていると考えたのである。ビュユク氏は全く躊躇することなく、全テュルクメン人口におけるシーア派テュルクメン人の割合は65%であると回答した。

トルコへ帰国した際、ITCのアフメト・ムラトル代表に同じ質問を行ったところ、彼もこの混乱を反映するかのような極めて現実的な回答を行った。「スンナ派の人々は『我々は65%だ』と言い、シーア派は正反対であると主張する。我々はというと、それぞれ50%であると考えている」と述べた。

つまり、イラクにおいて完全に客観的、そして詳細な人口調査がなされずには、そもそもこの議論の原因であるテュルクメン人におけるスンナ派とシーア派相互の割合が明らかになることはなさそうである。

■ 宗派は民族に優先

キルクークにおけるもう一つの現実は、活動的なシーア派テュルクメン人の中に、「見解の不一致」を理由にそれまで活動していたITCを離れ、独自に活動を始めた者がいることである。このひとりが、フェヴズィ・エルケム・テルズィオール氏だ。

彼はITCのサラハッディーン市における情報責任者であった際、彼の表現によると「生じた幾つかの問題によって」ITCから抜け、アラブ人のシーア派指導者であるムクタダー・サドル師との共闘を誓った。2005年12月の選挙にはシーア派の統一イラク同盟から立候補し、イラク国会にスライマニーヤ代表議員として当選した。

このことは、決してシーア派の人々がITCと真っ向から対立しているのを意味していない。というのは、シーア派とスンナ派のキルクーク問題における基本的見解は一致しているからだ。双方ともキルクークが歴史上いかなる時もクルド人の都市にはなっておらず、このためクルド人の手に渡してはいけないと信じている。したがって、しばしば共に活動を続けているのだ。だが、その微妙な違いが目を引く。

例えば、「キルクークがクルド人にとってエルサレムなら、我々にとってはカルバラーだ」と語ったシーア派の人々と出会ったことが挙げられる。この表現は、一方ではシーア派テュルクメン人がーITC同様ー北イラクのクルド自治政府に感じている深い反感を反映し、他方では「帰属意識」として宗派の繋がりを重視しているのを表している。

実際に我々が話したスンナ派テュルクメン人の大多数は、シーア派では「宗派の繋がりが民族の繋がりよりも優先している」と述べていた。アルビルで話したテュルクメン人もこのことを示し、「バグダッドはもはやシーア派の手にある」と指摘した。このため、キルクークが、クルド自治政府とではなく、トルコやITCが望んだようにバグダッドの政府と繋がりのある状態であり、このことは、この都市がトルコのではなく、イランの影響下にあるのを意味している、と語っていた。

シーア派の人々は、この見方を「矛盾している」と評価し、ITCやアルビルのテュルクメン人が同一宗派の者に向けた発言である、と述べる。言い換えれば、スンナ派テュルクメン人が、政治的必要性によって、スンナ派クルド人やスンナ派アラブ人に歩み寄っているのだ、と訴えた。

■マフディー軍拡大

他方、先の金曜日にキルクークで爆発した7台の車両爆破で2人が標的となったシーア派テュルクメン人も、実際のところ自衛を目的として、同一派と行動することを優先するのを隠さない。

この最たる理由は、疑いなく、2003年に米軍のすぐ後にキルクークへ流れ込んできたペシュメルガ(クルド民兵)の襲撃を蒙った際に抵抗できず、大いに損害を受けたことだった。

こうした襲撃が増加したため、2003-4年にシーア派テュルクメン人はシーア派アラブ人とともにキルクークで大きな抗議運動に参加したことは、同派テュルクメン人がいかなる勢力に組す傾向にあったかを明瞭に示した。実際ムクタダー・サドル師が2003年8月に行った声明で、クルドのこうした行動に憤り、キルクークが統一イラクの街であるとし、シーア派保護のためマフディー軍に属する2000人の民兵を同市に送り込むことを明らかにした。

時とともにこうした民兵の数はテュルクメン人の加入で増加したと明らかにされている。なぜならクルドのみならず、米軍も彼らを「イランのスパイ」とみなしてひどく取り扱ったことが、多くの若きシーア派テュルクメン人をマフディー軍に加入させたのだ。

クルドがキルクークを手に入れようという計画を続けた場合、深刻な衝突の発生が予想されるキルクークでは、誰と誰が対立し、誰が組しないのかは、このような事情を知ってよくわかるのである。

■相互批判

キルクークの問題での共通の見解故にしばしば共闘を進めたとしても、シーア派とスンナ派のテユルクメン人の関係は良好とはいえない。これには過去のわだかまりが重要な位置を占めると我々はみなしている。

なぜならサダム・フセイン時代に、概してシーア派に行われた暴力は、シーア派テュルクメン人に対しても実施された。さらに単にテュルクメン人であるが故に一層過酷となった。したがって、この問題は、両派テュルクメン人の間で今も議論が続いている。それだけに、米軍がイラク軍とともにタル・アファルで着手した血なまぐさい作戦行動についてさえ、相互批判を耳にした。

サダム時代に大いに苦しみを受けたシーア派テュルクメン人は、スンナ派テュルクメン人がバース党体制と共同歩調を採ったことを批判し、このために(シーア派の)一部が米軍をタル・アファルに入れようと誘い込み、シーア派の手にあるバグダッドの政府もこれを承認したのだ、という主張を聞いたのだ。

シーア派がアメリカを敵としているような諸事実より、我々には矛盾してみえるこうした主張は、確かに過去に照らして明らかにされねばならない。しかしシーア派とスンナ派テュルクメンの間に深刻な見解の相違があるという事実も過小評価できない。

(下略)

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( 翻訳者:岩根匡宏 )
( 記事ID:10222 )