İsmet Berkan コラム:地震を予想はするけれど-ゼイティンブルヌのビル倒壊に思う―
2007年02月23日付 Radikal 紙

イスタンブルのゼイティンブルヌで起きたビルの倒壊は、思い出さないようにしてきた避けようのない現実を、我々の眼前につきつけた。地震は避けようがない。地震は自然現象のひとつであって、防ぎようも逃げようもない。但し、地震による被害を避けることはできる。

おそらく悪い偶然なのだろうが、ゼイティンブルヌの倒壊現場で捜索が行われている時間帯に、南東部でマグニチュード5.9の地震が発生したとの報が入った。過去には、アフヨンのディナルで発生した同規模の地震によって数十人の人命が失われたことがあったが、今回幸いだったのは、(その地震では)ひとりの人的被害もなかったことだ。

さて、イスタンブルは、予想される大地震で人命がひとつたりとも失われることなく、うまく助からねばならない。その実行は我々の手に委ねられている。しかし、誰しもが責任感を共有することが不可欠なのだ!

ご覧あれ、そこらじゅうで、希望のかけらもないようなニュースが報じられている。例えば、倒壊したビルのあるゼイティンブルヌ区は地震(対策)のモデル地区に選定されていて、同地区の建造物は災害危険度調査(被害想定調査)を済ませていた。(今回)倒壊したビルは比較的「安全」と認定された建造物のひとつだったが、地震も起こらずして倒壊してしまったのだ。

ゼイティンブルヌで行われた災害危険度調査はどれほど信頼性の置けるものだったのだろう?否応なく皆の脳裏にそういった疑問が湧いた。

その一方、ゼイティンブルヌでは調査は済んだけれども、その結果に応じた何らかの対策は今まで講じられえなかった。何年にもわたって、我々は各紙で、この地区が将来移転することになるだろうと綴ってはいるが、家屋敷を取り壊して住民を同区から他の何処かへ移住させるのに必要な法的基盤がないのは周知のことだし、財源だって(ない)。

国民は、たとえ傷んでいようが、明確な危険性があろうが、建物から立ち退いていないし、建物を修繕させるわけでもない。倒壊したビルの(詳細な)耐震診断には1500新トルコリラ(≒135,000円)かかり、同ビルの住民はこの額を支払えなかったので耐震診断は行われなかった。しかし、もし耐震診断が行われていれば、倒壊で亡くなった2人は今日でも存命のはずだった。

耐震補強対策の前に横たわる最大の障害はこれだ。国民個々にも、公的機関にも財源がないことなのだ。

目の前には深刻な財政問題があり、今後もそれは変わらないだろう。区が、我々からの税金を投じて、老朽化した住居を持ち主の命を救うために買い上げたり、彼らのために新しい安全な住居を建設したりするのは、どれほど理にかなったことだろうか?

こう問いかけるのは恥だとお考えになるかもしれないが、地震対策を講じた建造物に住んでいた人々が、何ゆえ訴追されることになったのか?(そういった役割は)本質的には、公的機関の役割をそもそも越えるものだ。筆者の知る限り、イスタンブルの高速道路の高架橋の耐震補強工事はいまだ完了していない。道路に限らず、公共施設、学校、病院、いずれに対しても十分な対策が講じられてきたわけではない。老朽化していると知りつつ使用されている病院施設がイスタンブルにはある。

より深刻なのは、時間は鳥のように飛び去ってしまう(≒「光陰矢のごとし」)と気付くことだ。読者の皆さんが経験した8月17日の地震から7年半が過ぎ、地震に関連する訴訟が時効を迎えたとはいえ。

今から7年前、(今後)10年以内にイスタンブルで地震が起こる確率は30%だ、と言われていた。時を経るにしたがってその確率は増していることをお忘れになりませんよう。つまり、将来避けようのないこととして地震は起こり、日を経るにつれ、我々は(その分だけ)地震(の起こるその瞬間)により一層近づいているのだ。

我々は地震が起こると予想しているが、おそらく何ら策を講じることもなく、ただ予想しているだけなのだ。

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:10244 )