Haydar Ergulen コラム:「私たちは皆ジプシーだ!」宣言のすすめ
2007年03月07日付 Radikal 紙

DNAテストはファシズムの根を枯らすだろうか?「イスラーム教徒と黒人は我々の伝統をめちゃくちゃにしている」と言ったオーストラリアのファシスト政治家であるポーリン・ハンソンの遺伝子が「不完全」であることが分かった!イギリス系とアイルランド系住民の賞賛を受けているこのファシストが、DNAテストによって(遺伝子の面から)9パーセントが中東人、32パーセントがイタリア人、ギリシャ人あるいはトルコ人、59パーセントが北ヨーロッパ人であることが判明した。国内(=トルコ)のファシストもDNAテストを受ければ、果たしてどこから親戚が出てくるか想像もつかない訳で、おそらくジプシー(ロマ人)と親戚だということが分かったら恥ずかしくて死んでしまうのではなかっただろうか!

ヒュッリイェト・パザル(ヒュッリイェト紙の日曜版)の記事で、アナトリアのトルコ人の遺伝子も地中海人のものであることが伝えられていた。スペインの研究者グループが行った、地中海のコミュニティの構成員とアフリカのサハラ砂漠の南側の地域で生活しているコミュニティの構成員の間の遺伝子上の近似性の調査から興味深い結果が出た。例えばクルド人やアルメニア人の遺伝子の構造は、トルコ人や他の地中海人にとても近い。つまり我々と同じ地区で隣合って生活しているクルド人やアルメニア人もまた、他方では我々の親戚とみなされるのだ。近いことはいいことである。我々の互いの理解も進めてくれる。アルメニア人の女性たちがスカーフを私の母のように巻いているのなら、またクルド人の女性たちが私の母のようなまなざしを向けているのなら、誰にも増して人種主義者にとって悪い知らせだ。つまり誰一人としてそれほどまでに誇りに思うほど「純血」ではないということだ!それに「純血」であることがなぜ賞賛の理由にされなければならないのか、私にはそれもまた理解できない。

私はフラメンコが大好きだ。一見スペインのメロディーなのだが、セマー(旋舞)のようでもあり、アナトリアのステップ(半乾燥の草原地帯)の調べのようでもあり、ネシェト・エルタシュの哀愁漂う声が響き渡り、ネシェトが「兄貴」と慕ったハジュ・タシャンのボズラック(アナトリアの民謡の一種)からまるで一対のツルが空に舞い上がる(ような情景が目に浮かぶ)ようでもあり、アルメニア人と一緒に悲しみをこらえた民謡「サル・ゲリン」やクルド語の節のついた弔い歌、一種の「夜の言葉」として聞いた、鼻腔と心から別々に入ってくる哀愁に満ちたアラビア語の愛の歌もその中に溶け込んでいるようだ。(フラメンコは)アンダルシアで生まれた。(アンダルシアの)セヴィリア、コルドバ、グラナダはフラメンコのアナトリア(=祖国、母なる土地)である。一時期3つの文明が共存し、イスラーム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒の共通の祖地であったアンダルシアでフラメンコが生まれたのならば、その起源にもアラブやユダヤ、ベルベル、北アフリカ、スペイン、ジプシーのモチーフが含まれているということを意味する。

トルコ人、クルド人、アルメニア人、アラブ人、ユダヤ人は、国境や国家や(国や地域の)旗により互いに分け隔てられた地球の住人だ。一箇所で生活しないために戦い、友好関係よりも敵対関係を築くことで賞賛され、このために命を投げ打つ人々である。戦争のための機械をさびつかせるなといって常に(軍事)キャンプに分けられ、戦場に送られるわが兄弟は、元々我々は皆ジプシーだったのにと言えば私に怒るだろうか?きっと怒るだろう。なぜなら地球には72.5の民族があって、72の民族のことは分からないが残りの0.5がジプシーであることを私は知っているからだ。皆そのように教えられた。0.5、つまり不完全な、半端な人間だ。(ジプシーは)トルコだけにいるのかといえばそうではなく、ヨーロッパからバルカン、中東にかけての広い地域にいる、黒い肌をした暗い人たちだ。にもかかわらずジプシーは、ボヘミアンとして知られている。ボヘミアといえばボヘミアングラスであり、その細やかさで知られている... しかしこの細やかさはナチスと、東ヨーロッパの「共産主義」とは関係のない「官僚独裁」体制の両方により破壊された。それなのに世界が生きられる場所であることを、ジプシーが我々に思い出させてくれていた。その歌や踊り、旅の精神や自分たちの国を持たないこと、自由な移動や自然との一体感により。我々は彼らを恐れていたが、恐れの感情の下には抑えようのない嫉妬心が隠されていた。それなら誰がジプシーになりたいと思わなかっただろうか?恋人や子ども、家畜とともに生活し移住して、世界中を祖国とみなし、誰の土地においても監視なく、境界なしに自分たちに開かれた土地で自由に動きまわることを誰が望まなかっただろうか?

我々はいくつかの精神(の持ちよう)をジプシーと言って愛し、時には仕事や家、家族に黙ってジプシーのようにふらっと出て行くことに憧れ、エミール・クストリッツァやトニー・ガトリフの映画を忘れることがなかった。自分の気持ちの中にジプシーに近い部分を発見し、一握りの自由をねだっていたのは明らかだ。我々の二面主義は終わったのか、いや、その後になってやはり彼らを“半端者”と言って軽蔑した。そうしてDNAテストによって我々皆が自分たちの過去や血統と向かい合うことになる日がやって来た。皆が「半端者」であることを知る日も近い。「半端者」になろうではないか。血統図をジプシーにまで伸ばせばいい。もしかしたら我々の気持ちが目覚め、一新されるかもしれないし、考えが果てしない明らかさを獲得し、知性の壁にひびを入れるかもしれないし、人を「半端者」として軽蔑することも、「純血」であることを誇りに思うこともなくなるかもしれない。もしかしたらこのようにして、「私たちは皆ジプシーだ」と言うことが「私たちは皆人間だ」という意味であることを理解するのかもしれない。

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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:10348 )