İsmet Berkanコラム:アルメニア―トルコ間の歴史共同研究、頓挫の背景にあるもの
2007年03月14日付 Radikal 紙

このコーナーで以前お伝えしたように、イギリスで設立された重要なアルメニア研究機関のひとつ、ゴミダス研究所のアラ・サラフィアン氏とトルコ歴史協会会長のユスフ・ハラチオール教授が共同研究を行う目的で連絡を取っていた。おそらく皆さんもご存知と思うが、先週記者会見を開いたトルコ歴史協会会長のハラチオール教授は、共同研究はできなくなったと公表した。

この会見のあとで誰も残念がっていないのは実に興味深いことだ。トルコとアルメニアの歴史家が一緒に1915年以降にアナトリアで起きたことを調査しようという提案が、実は不可能になればいいと思われていたのはなぜなのか、多少なりとも示す証拠でもある。

ハラチオール―サラフィアン間の無意味な対話を見たところ、まずサラフィアン氏が研究対象として選んだハルプート問題であまりに多くのものを求め、あまりに多くの前提条件をつけていたことがわかる。

その後でハラチオール氏はテレビ番組に出演し、サラフィアン氏が要求した文書がみつからなかったと述べたが、これは興味深い。なぜならサラフィアン氏は、以前ハラチオール氏が言及したという主張に基づいて、ハルプートから移住したアルメニア人のリストを村、家、家族単位で要求したのだから。ハラチオール氏がないと言った文書はこれなのだ。

ハラチオール氏のテレビでの発言を見たサラフィアン氏は、研究プロジェクトの続行は無理だと手紙で告げてきた。この手紙の翌日、ハラチオール氏は同様の声明を出し、要約すると「サラフィアン氏がこの仕事から逃げた」という趣旨の発言をした。

確かに、最終段階でリングから逃げたのはサラフィアン氏になった。なぜならサラフィアン氏は、プロジェクトの最初期の段階から、亡命アルメニア人らから強力なプレッシャーを浴びていたのだ。以前私も書いていたように、亡命者(およびアルメニア国家)にとって、民族虐殺の存在は議論の余地のない「事実」である。したがって、彼らの内部の誰かが「虐殺はあったのか、検討しよう」などという立場で研究を行うことは、ましてやこうした研究をトルコの公式テーゼの守護者の筆頭であるトルコ歴史協会の会長と共同で行うなどということは、亡命アルメニア人にとっては受け入れがたい態度なのである。サラフィアン氏はこうした理由から、いち早く機会を見つけて研究プロジェクトから退却した。

もちろん、ハラチオール教授の状況もサラフィアン氏と大して変わりはない。なぜならプロジェクトの最初から、彼もまた非常に消極的で、しかし先に逃げ出す側になりたくないがために手を尽くしていたのは明らかなのだから。私が思うに、サラフィアン氏が逃げてくれてハラチオール教授は大いに安堵したことだろう。

***

研究者は、研究や知識に到達すること、人智に新たな知識や視点を提供することではなく、政治テーゼを裏付けることや政治テーゼを指示するために研究を行うようになり、そこから問題は始まっている。

1915年以降にアナトリアでアルメニア人とトルコ人、クルド人の間で何が起きたのかという問題は、客観的に調査するのが最も難しいテーマだ。なぜなら、このテーマを研究したいと考えた人は誰でも、自分の考えが何であれ、各陣営のうち少なくとも一つの陣営から、断罪されたり中傷されたりすることを想定しておかねばならない。そのためこの問題は、かなり強固な考えをすでに持っている人間以外、概して研究しないテーマなのである。そして、行われた研究は全く比較の視点をもたない。つまり二つの視点の両方を包含したものにはならないのである。結果、アルメニアの公式テーゼである「民族虐殺」の断罪や、トルコの公式テーゼである「衝突」の主張は、両者がただ自分のために言っていることから一歩も前進できないのである。

科学や研究の世界に全く入れないがために、結局両者は歴史テーゼを世界規模で推し進めている政治的な市民対策キャンペーンの具となる以外何の役にも立っていない。

残念ながら現実としては、アルメニア人亡命者(そしてすでにアルメニア国家)とトルコの間で70年代以降繰り広げられてきた市民対策闘争において、アルメニア側の方が国際世論で成功を収めている。
トルコ側の真剣な市民対策戦略が早急に必要だ。

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( 翻訳者:宇野陽子 )
( 記事ID:10402 )