Derya Sazak コラム デミレル元大統領:後ろは見ない
2007年03月30日付 Milliyet 紙

 第8代目大統領トゥルグト・オザルが1993年4月17日に「突然」死亡したので当事の首相スレイマン・デミレルにチャンカヤ(訳者註:大統領公邸のこと)への道が開かれた。
 デミレルは正道党―社会民主人民主義党連立期の首相であった。1991年総選挙では、祖国党にやりきれなくなった、「私達を助けてくれ、オヤジ!」と言う有権者達の票で第一党の座に躍り出て、(エルダル)イノニュの社会民主人民主義党と連立した。このようにして、9月12日(1980年軍事クーデター)以前のトルコを危機から救う公式であった、「中道右派―左派」諸政党の和解も、デミレルとイノニュによって誕生したのだ。
 政府は500日間だけ続くことになる1つのプログラムに取りかかった。
破綻した経済を立て直すこと、そして「民主化すること」が政権の主な目的だった。しかし、オザルの死により「俺についてこい」と言う「お助けオヤジ」の政治目標も変った。
 チャンカヤの候補者となることが全てに優先した。スレイマン氏と我々が行った最近の会話は、ミッリイェト紙の見出しにこのように反映している:「後ろは見ない!」
 政治において「昨日は昨日である、今日は今日だ」の思想の代表者でもあるデミレルにとって、ただ唯一の目標があった;連立の支持を背後に持って、大統領に選ばれること。しかし正道党一派は180人だった。デミレルを公邸へ、ただイノニュだけが推しあげることが出来た。そのようにもなった。
 1993年5月16日議会における第三回目の投票でスレイマン・デミレルは244票を獲得し大統領に選出された。ヒクメト・オズデミル教授は『アタテュルクから今日に至る大統領選出』という本において、デミレルにチャンカヤへの道を開いた社会民主人民主義党の態度には「連立を崩壊させないこと」および「早期選挙」の疑心が役割を果たしたことを、そしてスレイマン・デミレルはイノニュのお陰で(大統領)公邸に入ったことを記す。
チャンカヤに入って以降デミレルが「中立」で成功したと数えうる大統領時代を過ごしたのに対して、トルコは1990年代を連立政権(の混乱)によって失い、インフレが進み、外貨が制御出来なくなり、深刻な経済危機の時代に突入した。
 スレイマン氏が公邸に移らなかったら、当時の国会議長ジンドルックが大統領に選ばれたら、歴史は別の種類に書かれた。
ヒクメト・オズデミルはタイイプ・エルドアンがチャンカヤの候補者であることを評価した2006年12月31日のデミレルの談話を、著書に引用している:
「トルコで83年にして第11代目の大統領が選ばれる。平均して8年に一度大統領が現れる。あなたを大統領に選ばせるほどあなた自身に力があれば、機会はあるということだ。この機会を何故逃すのか?予算審議の際の発言の中で、「憲法はこうだ」と言った。「第101条、第102条」と言った。「お読みなさい」と述べた。「お読みなさい」と述べた国会には550人がいた。彼らは何であっても読んだ人達だ。何故「お読みなさい」と発言する。「ここで101条と102条に定められている人物とは私のことだ」と彼は言いたいのだ。」
現大統領セゼルがいかに選出されたのかは明日続けよう・・・

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( 翻訳者:関口陽子 )
( 記事ID:10519 )