Derya Sazak コラム セゼル現大統領時代
2007年03月31日付 Milliyet 紙

5月16日で7年間の大統領任期が終わるアフメト・ネジュデト・セゼルを歴史は世俗的な共和国に結びついた、譲歩しない、そして尊敬される一人の「法律家」として思い出すだろう。
セゼルはこの人間性を「宣誓式」のため国会に向かった最初の日に示した。
大統領の最初の命令は一般の国民のように自分を運ぶ公用車が赤信号で停止することだった。セゼルは自らを憲法裁判所長官からチャンカヤ(の大統領公邸)に連れた国会議員達に以下のように呼び掛けた:
「法律の上に位置する人間などいない;法律の優位性という原則に皆従わねばならない、憲法は、規則や法が必要なあらゆる時やあらゆる人々にもたらされねばならない。最大の災害は法や司法に寄せられる信用が失墜することだということを忘れてはならない。」
 アフメト・ネジュデト・セゼルは2000年の数度に渉る選出選挙が始まるまで、全く口の端に上らなかった候補者だった。
 4月25日、国会に議席を持つ5政党の党首にとって「共通の」候補者として示され、5月5日の第三度目の投票によって330票を獲得し大統領に選出された。国会は「セゼルで折り合いをつける」まで、1980年の前の大統領選出の舞台裏に類似した戦略的な争いの場と化していた。
 首相エジェヴィトは、まず「5プラス5」の公式に従い、第9代目の大統領デミレルの任期を延ばそうとした。ビュレント(・エジェヴィト)氏は憲法改定の件について圧力をかけ、国会議員達が「記名投票」することを主張した。1971年3月12日にジェブデット・スナイの任期が延ばされ、ファルク・ギュルレルの事件によって軍がクーデターを起こしたように、エジェヴィトは文民の意地を張った。デミレルを、また、自らも権威を失わせた。美徳党のグループは、デミレルに投票せず、「1997年2月28日(書簡によるクーデター)」の雪辱を晴らした。祖国党の党首ユルマズも「5プラス5」を拒否したら「順番は自分に来る」との思惑によりデミレルに投票しなかった。
 4月5日はこのような強制がなくなると本来の投票が始まった。
「軍の見通し」が始まった。参謀総長ヒュセイン・クブルクオールは、首相エジェヴィトを訪問して、軍はチャンカヤでいかなる大統領を見たがっているかに関する考えを伝えた。この訪問は、舞台裏に「メスート・ユルマズは望ましくない」という形で反映した。
 大方の予想以上に支持を集められる候補者は一人もいなかった、
 外部からの一つの名、憲法裁判所長官アフメト・ネジュデト・セゼルが候補者であることがこの雰囲気において明らかとなった。そして4月24日には党首達が新たな大統領候補者を世間に公表した。
 エジェヴィトは、彼に大統領候補者となることを頼んだ時、セゼルは「私は政治家ではない、法律家だ。あなたが探している柔軟性を持ち得ないだろう、よろしいのか?」と尋ねた。彼の言葉がどれほど掛け値なしのものだったかは2001年2月には経済危機が起こり、公正発展党政権が誕生したことで一目瞭然だ!

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( 翻訳者:関口陽子 )
( 記事ID:10530 )