Soner YALCIN コラム「ヨーロッパ人のトルコ・イメージ」
2007年04月01日付 Milliyet 紙

Soner YALCIN コラム「ヨーロッパ人のトルコ・イメージ」
2007年04月01日付 Milliyet紙

ミッリイェト紙とコンダ(調査コンサルタント会社)が共同で行った「我々は何者なのか?」調査は、トルコ人の間に大きな反響を生んだ。

さて、ヨーロッパの人々にとって「我々は何者なのだろうか?」。ヨーロッパにおけるトルコ人のイメージはどのように生まれたのだろうか?トルコ人のイメージは、時間の経過の中で、どのように形作られてきたのだろうか?そして、今日ヨーロッパにおいて、トルコ人に対する固定観念はあるのだろうか?

2004年4月1日、ストラスブールにて。欧州議会は、通常の会合を行っていた(校閲者註)。トルコレポートについて話し合っていた。そして、その日まで欧州議会が経験したことのないほどの長時間の会合で幕を閉じた。40人の議員が発言をした!

経済や政治の改革について話した人、新憲法の必要性について話した人、人権について話した人、民主化について話した人がいた。しばしば、言及されたテーマはといえば、軍の国政における影響力であった!

最後に、トルコレポートに対して、決が取られた。

賛成:211 反対:84 棄権:46

13人の議員が、レポートに対して説明に当たった。欧州議会の歴史において、一つの議決に対しこれほど多くの棄権が出たことは無かった、そして一つのレポートに対してこれほどの説明がなされたことは無かった!

欧州議会総会に参加していた人たちは、間違いなく「本音を隠していた」、そしてこのことは数世紀にわたりヨーロッパで作り上げられた「トルコ人のイメージ」と密接に関係していた。

トルコ人といえば、ムスリムである。

スペインで「トルコ人」という単語は、「coco」、つまり「お化け」という単語と同意語で使われている。イタリア人たちの恐怖を表す表現は「Mama, i Turchi」つまり、「ママ、トルコ人だ」である!「トルコ人」という単語には、単に
オスマン人だけでなく、すべてのムスリムが含まれていた。

そして、ヨーロッパの人々は、名前は聞いたことがあるが、実際に見たことの無いトルコ人について、完全なる伝説を作り上げていた。この伝説において、トルコ人は、恐ろしく、虚栄心が強く、乱暴で、怠惰で、無知で、そしてキリスト教徒がいなくなるのを望む残虐な人々であった。

1453年のイスタンブル征服は、ターニングポイントであった。十字軍の時代、トルコ人は東方で暮らしていた、そして恐怖の物語の主人公であった。しかし、もはやその時点で、トルコ人はヨーロッパの目前にまで到達していた。トルコ軍は特にそうである!

ヨーロッパ人は怯えていたのである。恐怖を誇張させたのである;その結果「トルコ人は、イスタンブルにおいてかなりの悪事を働いた」「トルコ人はひどかった」「トルコ人は残虐だった」「トルコ人は泥棒だった」...

こういった恐怖を、教会が煽り立てた。トルコ人という言葉は「Torxuere」(拷問)から派生したのだ!16世紀に、恐怖がヨーロッパ人に降りかかったのだ。

トルコ軍は、ヨーロッパを征服しに出かけた:ベオグラード、ブダペスト、ウィーン包囲・・・

トルコ人とヨーロッパ人の間に、嫌悪そして軽蔑によって、しかし同時に興味と隠しきれない憧れによって作り上げられた、痛みを伴う関係の時代が始まった。恐怖は、時とともに、興味や憧れへ変化していった。一体何者なのだろうか、こういったトルコ人は。

トルコ軍が西進したとき、ヨーロッパ人は表現できないような恐怖のなかにあった;軍の荘厳さ、イェニチェリの壮麗さ、メフテルの音楽の美しさに、密かに憧れを抱き始めていた。スルタンの名前は、ついに「Soliman el Magnifico」つまり「偉大なるスレイマン」となった!...

世俗主義によって始まった良好な関係

ヨーロッパのトルコに対する見方は、ヨーロッパの世俗化によって変化した。教会と宗教が国家から切り離されことは、主な衝突の要因として考えられた宗教が、表舞台から消える原因となった。脅威という認識は、理解へと変わった。
間違いなく、この肯定的な雰囲気の誕生には、この地にやってきたヨーロッパ人旅行家の印象が大いに役立っていた。

トルコ軍の前進がとまった。このことがトルコ人に対する見方の変化に、影響をおよぼしたかどうか、わからないが・・・。18世紀は、ヨーロッパのトルコ人に対する見方を肯定的な意味で発展させた。トルコ軍は、後退していた。恐怖の時代は終焉した。

さらにこの時代、ヨーロッパにおいて「トルコ的なもの」が流行した。貴族は、トルコ風な服を着て、肖像画を描かせ始めた。トルコ的なものの流行は、時とともにオリエンタリズムの誕生のきっかけとなった。

トルコ人は、ならず者でペテン師であった

19世紀は、オスマン帝国の崩壊が始まった時代であった。ヨーロッパはすでに、自分たちの文明の基礎と見なした古代ギリシャに惹きつけられ始めていた。トルコ人はヨーロッパ文明が築き上げられた地域で、キリスト教徒を統治する独裁になったのである、再び。

新たなイメージは、中世に作り上げられたものと違いはなかった。

「トルコ人は野蛮人」...「トルコ人はならずもの」...「トルコ人は血を吸う」...「トルコ人はペテン師」...

偉大なトルコ人は、再びこういったトルコ人に易々と戻ってしまったのである。

悲しくも、おかしいはなしである;この時代、政治、経済、文化の領域でトルコ人は自分たちをヨーロッパに認めさせようとした時代であった。公的にも、つまりタンジマートや通商条約そして改革勅令...そして私的にも、つまり宮殿、住居、西洋的なものへの愛着そして西洋的生活スタイルによって...

ヨーロッパがトルコをとにもかくにも認めなかったため、2つの世界の間で身動きが取れなくなっていた一部の知識人は(西洋)文明を拒絶するところまで至ってしまった。まさに今日のEU対立のように。さて、「トルコ人を打ち負かすこと」はヨーロッパ人の考えの中にあるのだろうか?

先週EU設立50周年式典において、ドイツのアンゲラ・メルケル首相が、フランスのジャック・シラク大統領に、ナポレオンが1799年にエジプトで、オスマン人に勝利したことを表すレリーフがあしらわれたビールジョッキをプレゼントしたが、それはこのことの象徴なのだろうか?
そうしてその日、つまり2004年4月1日。欧州議会は何百年もの間に築き上げられた「トルコ人のイメージ」のため、大揺れに揺れた。
数年で形作られた「トルコ人イメージ」の場を「トルコ軍に」明け渡してしまったようだ・・・。その日、会合で最も多くなされた批判をトルコ参謀総長が受けたことの「本当の意味」を、私はうまく説明できただろうか・・・?

後略

註)トルコのEU加盟交渉開始の期日を決定するにあたり、欧州議会は「トルコはEU加盟に必要な政治基準を満たしていない」とする報告書をこの日(2004年4月1日)、賛成211票、反対84票で可決した。

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( 翻訳者:丹羽貴弥 )
( 記事ID:10538 )