Yildirim Turker コラム:実のところ我々は何者なのか?
2007年04月09日付 Radikal 紙

コンダ(調査コンサルタント会社)が実施した「我々は何者なのか」と題された調査は、一部の人々を怒らせてしまった。

市民組織の中には、『ミッリイェト』紙が調査結果を公表する一連の記事を、差し止めさせようと裁判沙汰に至るところさえあった。問題はこういうことだった。5万人を対象とした徹底的な調査の結果、トルコは確固とした一体的な存在として立ち現れてこなかったのである。

この国のあらゆる人間にとって、「我々は何者なのか?」という問いは、世界の他の多くの人々に比べて、より一層、頭痛の種である。

もしも青年期の必然として、自分自身や世界と、敵や親類と考えるものと向き合うことに対する恐怖があるとすれば、この問いは青年期の封印された問いということになるのだろう。

また、「我々は何者なのか?」という問いについて次のような点から考えてみよう。いまここでどのような議論をしようとしているか?あるいはどのような問いの範囲外にいるのか?

かつての勢いを取り戻した『ノクタ』紙の関連し合う二つの特ダネ記事について我々が右往左往している様は、我々に我々自身の姿をこの上なく明快に示すことになるだろう。

軍部を批判するメディアの人物や組織について、信ずるに堪えるか否かという基準で分類しているとされる軍部がこのメモについて発表した声明は、極めてはっきりとした存在の誇示であったし、また脅迫的な作戦行動であった。

陸軍検察官のサイム・オズチュルク大佐は、軍のジャーナリストに対する見解が込められたメモが2006年10月12日に駐屯地から盗まれたと明らかにし、メモを誰が持ち出させたのかに関して捜査が行われたとしている。更には、このメモの流出がそれらの日付と完全に一致していることの重要性に注目しつつ、今回もかのおなじみの彼らの怒りの種について挙げてみせていた。軍がいまだに、そしてこれからもずっと、我々に情報ではなく命令を与える組織なのだ、ということを理解しない人間の脳みそに、現実を今一度思い知らせるにはこの上ない方法だ。警告の行使が世論の目にあたりまえだと映るようにしむける努力の大々的な表明である。

「警告を準備しながら、われわれは職務を遂行している。洩らされた情報を世に出すことで、貴方がたは、自分たちの(同僚の)うちの一部の信ずるに堪えない人間を、よそ者の暴力の標的の如き状態に置いてしまっているのですよ。」と言うに及んでいるのだ。

軍部の目的こそ、信ずるに堪えないものを打ち破ることではなかったか?

軍部は、世論を前にして、一物書きとして、一ジャーナリストとして私が信に堪える人物か否かを試そうとしているとはっきりと語っている。軍部が目を通さなければ私は書けないし、書いたものを出版させられないし、出版させたものを読者に読ませやできないと100%信じている。

ジグムント・バウマンは、最新の著書である『近代性とホロコースト』のなかで次のように語る。「忘れてはならないことは、虐殺に加担したものの多くは、ユダヤ人の子供たちに銃弾を浴びせたり、ガス室に(毒)ガスを送り込んだりした訳ではない、ということだ・・・彼らのほとんどは、公的機関のメモを整理したり、大まかな流れを用意したり、電話で話したり、種々の会議に出席したりした。彼らは席に着いたままで一民族全てを亡き者にしたのかもしれない。仮に、見かけ上は無害な彼らの努力がもたらす最終的な結果を彼ら自身が認識していたとしても、やはり、そういった認識は彼らの頭の奥のほうに留まっっていた。彼らが自らの手で行うことと大量虐殺の間に因果関係を見出すのは困難だった。必要以上に思い悩むことなく済ます、つまり、因果関係をその最末端の関連性まで目にしないでおく、という人間のもつ自然な傾向は、道徳的にみて少しも恥とされるものではなかった。この驚くべき道徳的盲目がどうして可能になったのかを理解するには、兵器工場で働き、新たな大口の受注のおかげで工場の『死刑執行を停止させること』をよしとしながらも、その一方でエチオピア人とエリトリア人が互いに行っている虐殺に対しては心底から嘆いている労働者たちについて考えてみるのが、あるいは、『天然資源の価格低下』が世界規模で良いニュースだと迎えられる一方で、『アフリカの子供たちが飢えによって亡くなること』を同じように世界規模で憂うことがどうして可能なのかを考えてみるのが、有効かもしれない。」

そう、一呼吸おいて、再出発すべき原点はそこだ。

■言いくるめられっぱなし

コンダの調査結果にアンダーラインが引かれるようなものは何もない。但し、トルコ社会の抱える問題は道徳的盲目である。

民主主義者として我々が(その名を)知っていた人々、自由主義者として我々が知っていた人々、そして我々が知らなかった人々、全員が、ある所からの圧力によって、恐怖を煽るように変身している。

彼らは、この組織(→軍部)に対する恐怖をひどく深刻なものとして感じる人々の間で、この恐怖によって力を得て批判の声を上げる者たちが黙るようにと望むだけに留まらず、あらゆる機会を捉えては、批判者(が誰であるのか)を示してみせるのだ。彼らは、この恐怖が揺るぎないものであることを望んでいる。軍部による悲惨な体験を持たない世代もが、この恐怖を速やかに受け入れるべきだと信じている。

メモに記されて耳鳴りを起こしている人々のうち、(軍部にとって)信ずるに堪えない(とされた)人々の大半は、反軍部ではないことを公言せざるをえない状況に置かれてしまった。

彼らはこの不正に不快感をあらわにした。信するに堪える(とされた)人々の中で、かつての血塗られたメモの手先となっていた人々からは、暫く何の反応もなかった。それから、彼らはこの措置が正当なものであるなどと言うに及び、例として、ある政党の類似した活動を示してみせた。彼らは軍部を明確な政治的機構と同等のものとみなし、(軍による)警告の行使を世論の目にあたりまえのものと映るようにしようと努めた。彼らは、かつて同業者をメモの犠牲とした。一人の人権活動家が射殺される原因となったのである。それにも関わらす彼らの信頼が揺らぐことはなかった。

何故なら、すばらしい鉄筋コンクリートの街角に軍靴が行き交うことに声が上がらないだけではなく、密かにいつでも兵隊が無法をなすことができるような危険のなかで我々国民が生活することを良しとしているからだ。

退役海軍司令官オズデン・オルネキのものとされる日誌で詳細に説かれているクーデター計画の危険性についてではなく、日誌の情報がどのルートから流出してしまったのかについて頭を悩ましているのも、同じメディアに携わる闘士たちなのである。

そう、こういった訳で、シェムディンリ事件はひっそりとお蔵入りできるのだ。

その人生が暗転させられた(直接の相手である)検察を助けられない政権の首班(→エルドアン首相)は、悟に恥じることもなく、オルネキのものとされる日誌問題について行動に移らない検察に不満を洩らしている。

誰も、こんな茶番劇で、ノックされるドアと不都合な偶然以外の何かが目にできるとは期待していない。(オルネキと日誌との間に)関連性が生まれることはないし、関連性を見出した人間は怒りとともに(祖国の敵)リストに加えられる。

フラント(・ディンク)襲撃の警察と軍警察が関わった内幕は、だから我々の目に触れることはないのだ。

ムサ・アンテル襲撃と同様、フラントの事件も、我々の記憶の中に様々な闇のひとつとして留めておこう、と言わんばかりに。

武器を手放すことができない退役軍人のある種の不可侵性もここから培われてくる。クーデターの実行者に対しての戴冠(のような顕彰)も。ススルルク(事件での)失態での拒みようのない(影響力の)高まりも。

クルド人が、都市や山で、あるいはキルクークや世界のあらゆる場所である種の問題として我々の前に立ちはだかる背後には一体何があるとお考えだろうか?

全くこの点に関してはジョージ・オーウェルが「下層階級」について書いたところから引用してみる必要があると思う。何故なら、我々も、我々の父親たち(の世代)も、クルド人は汚れた臭いがするものだ、と教えられてきたのだから。

オーウェルは様々な階級対立を論じる一方で、上中流階級出身の英国人として次のように述べる。

「私達はこのように教えられたものです、下層階級出身の人間は臭うものだと。この点については、はっきりしていることですが、飛び越えられない境界があることが問題となります。なぜなら、気に入るか気に入らないかといった感情は、どんなものであっても、「生理的な」感情ほど根本に関わるものではないからです。人種的嫌悪や宗教的嫌悪、知的・感情的成熟(の程度)や教育の違い、ひいては道徳的信条の違いでさえ、後天的に乗り越えられるものです。しかし生理的な嫌悪感は後天的に乗り越えられるものではないのです。」

クルド人が汚れた臭いがするという知恵を施された国民のひとりとして、どれほど民主主義的な他人への配慮を我が物としても、クルド人と話す際の我々の声のトーンに、パンを運んでくるのが遅いポーターと話しているかのような(見下した)雰囲気が漂う、そんな場面はある。我々は、自分たちが退屈しているのだとすぐに決め込んでしまう。押し付けられた理性のゆえにそうなってしまう可能性があるように、後から得られた民主主義によってもそうになってしまう可能性がある。

我々は、クルド人を前にして、身をかがめて「私はこういう(君の)方法では何もできない。(だから)君ももう暫くはこのようにしなさい」とまで言うことはないにせよ、彼らの無知や政治的過失にうんざりした経験があるからと、彼らの元から去ってしまう。

そのうえ、(そうすることで)我々の良心は快感をおぼえる。

悲惨な状況は続いている。我々誰しもがはっきりと見ている。我々のうちには、嫌悪で顔を皺くちゃにしながら流れを変える人間がいるし、トルコの根本的な政策が拠って立つシニシズムを信じずに――真に受けずに――異議申し立てを行う人間がいるし、やはり、縮こまっている人間もいる。

とすれば、我々は何者なのか?

我々は、何十年も同じ嘘とともに生きてきたがゆえに同じ恐怖から解き放たれることができないでいるある種類の人間である。こっそりと呻いてはみるものの、それでも危険の下で暮しているのだ。

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:10610 )