Taha Akyol コラム:キルクークはイラクの都市だ!
2007年04月14日付 Milliyet 紙

ヤシャル・ビュユクアヌト参謀総長は、政治的命令がある場合には、軍はテロに対して「越境作戦」を行う軍事力を「十分に」保有していると述べた。テロとの戦いの文脈で言及したにもかかわらず、アメリカもEUも(これに対し)「外交上の言葉で」異議を唱えた。
「干渉する者の手を切り落とす」というイラクのマシュハダニ国会議長の発言は、完全に遊牧民のたわ言であった。イラクでは大統領はクルド人(タラバーニー)、首相はシーア派アラブ人(マーリキー)、国会議長はスンナ派アラブ人である。マシュハダニはスンナ派であるにもかかわらず、イランと「特別な」関係を持つ人物である。イラン・イラク戦争時にイランを支持し、またバルザーニとの「特別な」関係があることを理由に身柄を拘束されていた。
今でもスンナ派ではなくシーア派・クルド人連合の後ろ盾により国会議長のポストに就いている。流血の惨事が続くイラクでは、多くの政治的策略が仕掛けられている。マシュハダニがどの策略と通じているためにこのような発言をしたのか、ということはまた別の問題である。どうあれこうした反発を示しているのは、トルコにとって軍事的観点からは極めて容易な「軍事作戦」の決定が、政治的には極めて「危機的なこと」であるからだ。
トルコがキルクークに関していくつかの目論見があると(イラク側から)思われることもまた、トルコの軍事力行使への反対意見を醸成している大きな要素である。

■歴史的な経験

文民であれ軍人であれ国の全ての高官が繰り返し宣言しなければならないことは、キルクークはイラクの都市だということ、すなわち(イラクに居住する)テュルクメン人はイラクの国民であり、トルコにはモースルやキルクーク、テュルクメン人に関する組織だった政治的意図などないということだ。
1926年に今日のトルコ・イラク国境(確定のため)に署名したアタテュルク政権も後に続く歴代の政権も、いかなる形であれモースルやキルクーク、テュルクメン人について密かな目論見を抱かなかった。アタテュルクは、テュルクメン人の文化的権利について何らの提案さえしなかった。さらに我が国では学校の教科書で(アラブ人居住地域を除くオスマン帝国領の領土保全を要求した1920年の)国民誓約(Misak-ı Milli)を今日の国境線として教えてきた。なぜならトルコには1つの経験があるからだ。祖国解放戦争の時代に「共通の敵」であるイギリスに対抗し、トルコの独立戦争を支援したイラク人のアラブ・ナショナリストたちは、ローザンヌ条約でモースルの領有権が問題となったときにはトルコに反対する側にまわったのだ。アラブ・ナショナリストの目にはモースル州はイラクのものであり、アラブ人のものであると映った。(カッサム・アル=ジャマイリィ、イッゼト・トプラク『イラクとケマリズム運動』アタテュルク研究センター出版 p149-151を参照のこと)

■政治面への配慮が必要

トルコがキルクークに関して目論見を抱いているのではないかという疑念は、テロとの戦いにおいて行く手にさらなる困難を生じさせるかもしれない。この疑念を掘り下げてトルコに反対する政治を生み出したがっている人々がいることもまた明らかだ。
そういうわけでバルザーニは、トルコが「越境作戦」に言及することを常々キルクークと関係がある言説であるかのように示そうと努めている。越境作戦の決定を下すことは非常にたやすいが、実際に実行に移すことはとても難しい。外交的な下地をしっかり作っておかなければ、政治的に逆の(マイナスの)結果さえもたらしうる。そのため、しょっちゅうその話(=越境作戦の話)を持ち出すのは正しい態度ではない。トルコに対して世界中で不必要な疑念を生じさせるかもしれないのと同様、口に出して実行しないこともまたトルコの持つ抑止力を低下させる。するつもりなのなら黙って迅速にやるものだ。

メモ:(アフメト・ネジュデト・)セゼル氏の演説について月曜日に吟味する予定だ。今のところ次のように言えるだろう:これほど政治家らしくなったところを見ると、自分と考えを一にする集団を首領不在で放っておいてはならない。すぐに(大統領の任期切れ後の)5月18日に自身の政党を立ち上げるべきだ。

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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:10643 )