Turker Alkan コラム:テレビ発明以前のはなし
2007年04月15日付 Radikal 紙

電池式のポータブル・ラジオが登場した時には、それが一種の革命のように思ったものだ。もはや、ラジオ放送は、山や丘で世界から隔絶された生活を営んでいた村人にも届くはずだった。村人は、読み書きができなくても、世情に通じることができるはずだった。第三世界の民衆は反乱を起こすはずだった。様々な騒乱は次から次へと続いていくはずで、土地を持たない村人や、支配されていた民衆は反旗を翻すはずだった。その筋書きについての多くの本や論文が書かれ、様々なことが語られた。ひょっとすると、1960年代や1970年代における民衆運動や植民地主義に対抗する民族主義的左派の活動では、おそらくラジオが実際にその一部だったのかもしれない。

とはいえ、私は、あるできごとをとてもよく覚えている。1950年代の初頭、アナムルキョイの村人たちは、「エージェンシー・ニュースを」聴くために、彼らの村からロバの背に揺られて何時間もかけてやって来てから、ラジオがあるカフヴェの前で放送を聴く楽しみにありついていた。一方ではバッカルで買った店売りのパンとヘルヴァを食べながら、他方では朝鮮戦争のニュースを聴き、クヌリの戦いでの我らの英雄たちについて語り合うのだった。(より貧しい人々は、ヘルヴァを買う余裕がなかった。彼らは自家製のパンに、パンのお供として店売りのパンをのせて食べるのだった。)

町にひとつはラジオがあった。しかし放牧地ではそれさえなかった。そこでの最良の情報のつてはチェルチだった。今日のスーパーマーケットやそれ以上の大規模量販店がある世界では、きっとチェルチがどういうものか思い浮かぶひとは皆無だろう。チェルチとは一種の移動式店舗のようなものだ。チェルチは、ロバや馬の背に、インジック・ボンジュク(主にトンボ玉を使ったアクセサリー類のこと:訳者)、布地、タクタク・ヘルヴァと呼ばれる食べようとしたら歯が欠けるくらい硬い黄色いヘルヴァ、塩、砂糖などを載せて放牧地を行ったり来たりしながら商いを手がけている人々だった。彼らは、放牧地にやって来るやいなや、ロバたちを深い木陰に引いていって、品物を降ろし、周りに集まってくる女性や子供に売り始めるのだった。実際には、チェルチが運んでくるニュースは、より地域色の強い性格のものだったけれど、それでも(村人たちにとっての)ニュースの需要にある程度見合ったものだったように思われる。

私がラジオに出会ったのは小学校の2年生だった。ある日、父が、小脇に小さなAGA製のラジオを抱えてきた。家族みんながわくわくしながらラジオの周りに集まった。雑音の中に歌らしきものを捉えるとみんなが幸せな気持ちになった。実際のところ、ラジオがちっぽけなことを、父は、内心気にしていた。ある大工職人にラジオをより大きく見せるようなキャビネットを作らせた。

最初の頃に私がひどく気になったのは、一体誰がラジオの中のコビトに食事させているのだろう、ということだった。おそらく、みんなが寝ているときにこの作業(→ラジオの「中の人」への食事提供)をやっているのだっだ。時を経るにつれ、私たちはラジオとラジオの雑音に慣れ、私たちの生活の一部のようになった。

私たちは新年を、大々的なな臨時宝くじを、ラジオを聴きながら祝った。そして私たちは耳にしたのだ。

サッカーでトルコがハンガリーを3-1で破ったことを・・・
スエズ戦争を・・・
ロシア人のハンガリー侵攻を・・・
1950年の(総)選挙を・・・
朝鮮戦争を・・・
メンデレスが「笑みをたたえて飛行機を降りたことを・・・」
祖国戦線の登場を・・・
想像上のちびっこアリーのラジオドラマを・・・
モスクワ(ソ連)の放送局「我らの声」を・・・
アルパスラン・テュルケシュの低い声で読まれる5月27日の声明を・・・
5月27日以降に続くクーデターの展開を・・・

そして・・・。テレビが発明された。こうして何もかもが変わり、新たな時代が幕を開けた。

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:10650 )