Mumtaz'er Turkone コラム:「新時代」を迎えて何が変わるのか?
2007年04月26日付 Zaman 紙

我々は「大統領になるのは誰か?」という問いをめぐる論争を、ほぼ1年にわたって繰り広げてきた。バイカル(共和人民党党首)がアブドゥッラー・ギュルが(大統領)候補になることに対して示した反発は、「死を見てマラリアを受け入れる」人の気持ちを反映している。一方でもちろん「タイイプ・エルドアン(首相)が大統領になることを防いだ」ことの美酒に酔った状態でもある。公正発展党(AKP)執行部の採った戦略と(大統領候補選出過程に伴う緊張を)解きほぐした相次ぐ戦術が成功を収めたことは明らかだ。(我が)国はカオスに陥らず、経済に危機は生じなかった。「我々が(大統領の座から)引きずり下ろす」と言っている人々も周りには見当たらない。まだ選ばれる前からアブドゥッラー・ギュルが大統領の座を射止めたような状態だ。「新大統領は誰になるのか?」という心配事で地面を跳ねまわった石は、今度は違う設計図に従って本来の場所に留まろうとしている。そのとき、次の問いについてよく考えて見なければならない:

「トルコで何が変わるのか?」
これに対する返答を「(これまで)何があったか?」という問いで切り出す必要がある。

■恐怖の民主主義から自由の共和国へ

「建国以来、我が共和国の後をこそこそとした影のようについてまわっていた反動主義者の脅威は、今日到達している段階から(社会)に憂慮を引き起こす原因となっている。トルコの世俗体制と共和国の近代的成果を標的とする活動によって宗教を政治に反映させる努力が社会的危機を深化させている」。この言葉は、アフメト・ネジュデト・セゼル大統領が過日軍事アカデミーで行った演説からの引用である。「つまりどういうこと?」という疑問とともに、(セゼルが)我々が心の中で感じた現実の世界に属さない恐怖を映してみせたと理解することができる。しかし(このような言葉は)皆によく知られた、おなじみのものであるように感じられる。我々は共和国の建国以来「こそこそとした」「反動主義者の脅威」に直面したか否かを「理性にかなった基準」で説明することはできないかもしれない。しかし我々が覚えている限りにおいて、この言葉に似たものを常々聞かされてきたことは明らかだ。どの軍事クーデターの声明も似たような言葉で飾られ、どの祝日にも似たような演説が行われる。その上この(言葉の)せいで祝日は喜びの代わりに恐怖と緊張の日と化してしまった。さらに(セゼルの)同じ演説に出てくる「トルコにおける政治体制は共和国の建国以来、いかなる時代にも今日ほど脅威に直面してはいなかった」という言葉さえ、毎時期どころか毎月何かの口実で聞かされてきた言葉であることを知っている。「世俗的な共和国の基本的価値が初めて明確に論争の焦点にされている」。という見方も、誰を標的としているかや何を意味しているのかを完全にわからなくとも、我々が魚ほどの記憶力しか持ち合わせていないわけではないところをみると、この「初めて」という言葉もそもそも始めてではないということを思い起こすことができるのだ。

「トルコを時代遅れの体制に引きずり込もうとしたがっている人々が民主主義に言及することは、1つのパフォーマンスとみなされなければならない」という警告でセゼルが完全に民主主義をもその恐怖に満ちた世界の恐ろしい物体の1つにしたことはぞっとするようなことではあるまいか?民主主義を口にする人々に疑念を持って近づくためには、民主主義を放棄するか、パラノイア(偏執病)でなければならないはずではないのか?

「何が変わるのか」という問いに対する最初の答えはこれでなければならない。我々の中で辟易とした感情を呼び覚まし、頭に重くのしかかるこの時代遅れの表現をおそらくもう聞かなくなるだろう。恐怖でゆがめられている民主主義を我々から引き離す有刺鉄線の上にある「立入禁止地区」という看板を見なくなるだろう。(これは)大きな変化ではないのか?アブドゥッラー・ギュルから「共和国が憲法で規定された世俗的、社会的、法治国家の原則に依拠すること」という言葉を間違いなく多く聞くことになるだろう。その上我々は「アタテュルクの原則と革命」にも合わせてより一層固く結ばれるだろう。恐怖が愛情にとって代わるだろう、すなわち共和国の全てを愛し、ふところで抱きしめるようになるだろう。なぜなら我が国の新しい大統領の口から「民主主義に言及する人々が」トルコを「時代遅れの体制に引きずり込もうとしている人々」であるという、疑念に満ちた心の奥底を責めるような言葉を聞かないようになるからだ。共和国が単に「誰かの財産と不動産」でないことに気付くだろう。我々の間に置かれた障害が取り除かれるだろう。我々を恐怖映画の息の詰まるような雰囲気の下に押し込めた果てしない脅迫や危険のシグナルから解放されるだろう。これらの代わりに民主主義が育つよう努めるとき、大統領の口から世界での我が国のイメージに関する心強い言葉や、経済成長を後押しし安定をもたらすような数字、またよりよい形で進められるEU加盟プロセスに関する(よい)兆候と出会うことになるだろう。山を見張っている恐怖の代わりに、我々の家の戸を鳴らすチャンスにめぐり合うのだ。トルコが真に大国であり、力と蓄えをとても合理的な形で使わなければならないことを学ぶだろう。しかし最も重要なことは、我々が放っておかれた時代に体制に脅威を与えた反動主義者の国民ではなく、朗報を約束する創造的な社会に自分たちがいることに気付くことである。我々の抱える問題を皆の共通認識を動員しながら、民主主義の持つ潜在能力と道具を使って我々自身の能力を示す機会を何よりも多く発見するだろう。これらを聞かなければ、チャンカヤから国中に広まる恐怖の帝国主義の影を我々からぬぐっても不十分ではなかろうか?トルコには変革が必要だった。言葉の上ではなく、全ての物事が時代に合うことが必要だった。我々は最も小さな政治的変化の要請を「体制が危機にさらされている」といって押さえ込もうとする人々のプレス機から解放されなければならなかった。今、目前にこの機会が横たわっている。

■より近代的でより民主的な…

「人々を自由に放っておき、運営を民衆に任せるなら共和国は危機に瀕する」という恐怖が、「民主主義は我々の存在意義をなくす」という(世俗主義者の)不安の表れであることを我々は知っていた。チャンカヤ(=大統領府)に座っているイスラーム風スカーフをかぶった「ファーストレディ」が、我が国の体制の世俗主義の原則に害を与える代わりに、イスラーム風スカーフのせいで大学の門から中に入れてもらえない若い女性たちをも体制と一体化させるであろうことを認めなければならない。これこそが共和国を価値あるものにするものなのだ。共和国の憲法や共和国の法律や、共和国の国民が仮に危険なものと位置づけられたシンボルに最も高いレベルで(自分たちを)代表する機会を与えているのなら、この体制を誰も壊すことはできない。共和国の持ち主はもはやあらゆる場所に恐怖を撒き散らした人々ではなく、共和国のおかげで頂点に立った人々なのだ。我々が得たものの中で最も大きなものは、民主主義を我々の共和国に対する脅威として見る代わりに、民主主義の持つ非常時の問題を解決する能力をすでに動員できるだけの立場に我々がたどり着いたことである。民主主義は共和国にとって危険なものではなく、それを健全に、またその寿命を延ばす唯一の方法なのだ。

我々は民主主義の最も成熟した段階にいる。長年国家の運営を国民に任せるなら国益に害が及ぶと信じ込まされていた。それに対して、民主主義と自由を擁護する人々は小さな少数派となっていた。今日、トルコ共和国の高貴な利益や国民の繁栄と幸福が民主主義以外において実現されないだろうといういう考えを皆が共有している。多元的な民主主義の豊かな土壌においてのみ、自由市場体制、したがって経済的繁栄を実現することができる。民主主義の生み出す自由な環境においてのみ、我々の抱える民族問題を脅威ではなく強固な統合に向けた問題として論じることができる。国内外の安全保障を、やはり成熟した民主主義のもたらす複数の選択肢を同時に操ることによってのみもたらすことができる。

■イデオロギー的なプロパガンダから解放されること!

「アタテュルクの原則と革命を基礎とする現代トルコ共和国のイデオロギーは、全国民が支持しなければならない国家イデオロギーである」。この言葉もまた、任期が終わりに差し掛かった現大統領のものだ。(この言葉は)そもそも(現大統領が)去る前に我々がすでに何から解放されたのかを簡潔に想起させている。「アタテュルクの原則と革命を基礎とする」自由で民主的な国の代わりに1つの「国家イデオロギー」を受け入れることがどれほど「時代遅れ」であるかをセゼルに説明することはできまい。「国家の利益」の代わりにイデオロギーを定着させたとき、物事すべてを盲目的な世界の犠牲にしているのだ。まるでソ連のように。光栄にも、冷戦時代から残ったこの全体主義思想が、現代世界で学問や科学において(存在できる)場所がないことを未だにその世界の中で生きている人々に説明する代わりに、我々が大統領を交代させているのだ。「現代トルコ共和国イデオロギー」の名前で皆に支持することを強制した中身のない言葉が、アタテュルクの原則と革命にも反する教条主義であることを、普通の一国民になったときにセゼルにもしかしたらもっと容易に説明できるのかもしれない。1つの国の持つ最も大きな資本は信頼である。安全保障の懸念に終止符を打つ方法もまた、信頼を築くことである。生産性の高い市場と社会を生み出すこと、現代世界の中で賞賛される地位を築くこと、また(市場で)競争力をつけることは、社会の中や個人と国家の間で信頼を築くことによって可能となる。人々が恐怖によって横並びになっている国では、あらゆる領域で不信感が支配する。

我々には動かすことのできる民主主義が必要である。反動にブレーキをかけるのではなく、一方で政府、もう一方で国民と調和した大統領が必要である。セゼル個人が代表したものから我々が得た教訓は我々の目の前を明るくするだろう。イデオロギー的な先入観から解放された、物事を現実的に考えられる大統領であれば違いを示すのに十分だ。人はその任務で歴史に名を残す。アブドゥッラー・ギュルの担う任務は恐怖の代わりに信頼による支配への契機とならなければならない。国のダイナミズムや生産性に影を落とすことのない大統領さえいれば大きな前進ではないか?

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セゼル大統領:トルコの体制がこれほどの脅威にさらされたことはなかった(2007年04月14日付Milliyet紙)

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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:10737 )