Hasan Celal Guzel コラム:国民の意思を踏みにじるのか?
2007年04月29日付 Radikal 紙

親愛なる読者のみなさん、私にはこの日曜日がひどく憂鬱だ。トルコは、またしても、堂々と新たな問題に―求められるがままに―引きずり込まれていく。国民の意思に敬意を払わない人々は、法をゆがめて捻じ曲げて、司法判断をいたずらに行使しては、専横と強制によってトルコ大国民議会の大統領選挙を阻もうと努めている。いつの場合でもそうであるように、国民の意思の後ろ楯を得られない人々は、「司法の寡占(状態)」の助けを見込んでは、国民主権を亡き者にしようと尽力しているのだ。

■「367」という数字の無意味さ
ええ、ご承知の通り、議会民主制の適用に努めてきたわが国では、大統領はトルコ大国民議会によって選出されることになっている。この選出がどのように実施されるかについても、憲法第102条においてはっきりと条文に謳われたのだった。この条文にもかかわらず、結論ありきのジャコバン主義的的法律家たちによって、共和人民党は、よくご存知の独裁的性質を与えられて、議決発効に有効な出席数が367議席だと主張しているのだ。
このコラムを書く前に、憲法の要件と、この条文の細則をひとつひとつ調べてみた。ここで延々と説明するつもりはないが、次のことについては明記しておこう。全ての細則における文言は、むしろ逆に、大統領の選出を容易にさせることを想定したものだったのだ。第108条の要件にある次のような表現だけでも、短絡的な結論ありきの解釈に拠った367(議席を必要とするかしないか)という障害(そのもの)が存在しないことを説明するには十分だ。「トルコ大国民議会は、長期に渡らない期間ののち、(次期大統領を)選択するよう努めること、そして、選出がいたずらに長期化するのを防ぐべきこと」
1982年憲法が施行されてから、同条文に従って3たび大統領が選出された。オザル、デミレル、セゼル、各人の選出にあたっては、どういう形であれ367議席の要否が問われたことはなかった。
更には、共和人民党の性質が問題を引き起こし、同党が本会議に出席しなかった1989年の大統領選挙では、その(367という)出席数に満たなかったにもかかわらず、故オザルは大統領に選出され、その逝去に至るまでその職務をうまく務め上げたのであった。
とすると、何か、今になって、オザルの大統領在任は正統なものではないとでも?・・・

■憲法裁判所なのか、憲法裁判所「党」なのか?
賢明なる読者のみなさん、私は新聞の見出しを読んで、失望している。(記事では)憲法裁判所、すなわち最上級の司法機関のメンバーについて分析されていて、現メンバーのうち7名がオザルによって、同2名がセゼルによって選任されたと記されており、その憲法裁判所が大統領選出決定を無効化できると述べられている。中立かつ法に従うべき上級審のメンバーについて行われたこのような論評は、私の、そして同様に貴方の良心をえぐりはしまいか?
貴方にお聞きするが、これが憲法裁判所なのだろうか?さもなければ、一種の政党なのだろうか?
憲法第148条と関連法において、憲法裁判所の職務と権限ははっきりと明示されている。それら職務と権限の中に、トルコ大国民議会の議決を審査することは含まれていない。そのうえ、憲法裁判所(自身)がその(立法府の決定を審議しない、という)方向で、かつて下した判例があるのだ。いま、議会の決定をむりやり内規の変更という形に解釈して憲法裁判所へ提訴し、決定の無効判決を得ようと貴方がた(共和人民党)はしているのだ。これを、国民の意思に対して司法判断を乱用しつつ暴挙におよんでいると言わずして、何と評されようか?
この不名誉に対して、「いやいや、憲法裁判所は、この訴えを根拠薄弱として即座に棄却するのだ」と言えればどれほどいいか。しかし、同裁判所のメンバーがこれまでにあった公判でいかに不当で一方的な判決を下してきたのかを知っているだけに、悔しいかな、そう(断言)する自信をもてないでいる。
貴方がご存知であろう親友たち、目下のトルコの民主主義、そしてトルコの司法は、極めて重要な試練を経験しているところなのだ。国民の意思が尊重されることになるのか?はたまた、「司法の寡占(状態)」が一握りの人間と一緒になって、国民主権の上に位置する(何らかの)権威をいま一度作り上げることになるのか?

■正道党と祖国党は恥を知られたし!
この危機に際して、正道党と祖国党は、残念ながら、彼らに課せられた民主主義的使命を放棄してジャコバン主義的寡占と共和人民党の専横に対して、言われるがままの状態になってしまった。
メンデレス、オザルの遺産の相続者だと主張する人々は、アタテュルク―イノニュ大統領時代の如き全体主義的傾向を持った共和人民党の玩具になってしまい、(メンデレス、オザルという先人の)跡を継ぐ存在としては相応しくないことを示してしまった。
なんと哀れな図式だろうか!
このような中で、あらゆる圧力にも関わらず、国民の意思と、民衆の選択を価値あるものとみなし、大統領選出のための本会議に出席した正道党と祖国党の国会議員諸氏に対して、とりわけ、わが親友ウンメト・カラドアンに対して、心より敬意を表する。
正道党と祖国党に対する、今回の彼らの反民主主義的態度についての回答は、有権者たるトルコ国民が投票箱によって示すことになるだろう。(彼らの)このような考え方がそのままならば、議席獲得に最低限必要な10%の得票さえ難しかろう。

■望んでいるのが選挙なら、どうぞ選挙を・・・
ええ、これまで私は早期選挙を心から望むような国会議員には一人たりとも遭ったことがない。なぜなら、国会議員は、自分たちが再度選出されるか否かに確証が持てないので、任期満了までまっとうしたいからである。大統領選挙が破綻した末、仮に憲法裁判所によって一方的な無効判決が下された場合、45日以内に総選挙となる。
ちょうど今、サッカーの試合でも応援のために使われる素晴らしいあるバラードの歌詞を思い出した。
「神々に雪(kar)降りけり、汝は凍てざりしや?
汝は、ことの行く末を思わざりしや?」
まさしく、共和人民党の異議申し立てを行った当人たちは、この惨状の結果として即時(総)選挙となった場合について、彼らの将来を考えてみたことがないのだろうか?はて、共和人民党の人々はボートに乗っていて、「審判の日に向かう」正道党や祖国党の取り乱した我々の親友たちにどう声をかけるのだろうか?
何ら疑うべくもないことだろうが、この異議申し立ての結果として実施される選挙によって有利(kârlı)になるのは、公正発展党と民族主義者行動党のみである。国民は、自分たちの意思に反して行われたこの異議申し立てを、どうあっても許すことはないだろう。

■異議あり
このコラムを書き終えてから、参謀本部のインターネットサイト上で公開された「警告書簡」について知った。軍部の民主主義に対する介入という意味を持つこの「警告書簡」に対し、私の存在のすべてを懸けて、激しく抗議する。この警告書簡を公にした人々は、トルコ刑法に記載された最も重い罪を犯したのだ。
警告書簡を精査してみると、イチジクの(細かな)種をも満たさないようなすっからかんな(内容の)主張を並べ立てて、国民の意思を封殺しようとしていることが分かる。
大統領候補夫人のスカーフ(に対する危機感)のために発せられた警告書簡、として歴史にとどめられるであろうこの専横は、トルコの政治史に恥ずべき記述として伝えられていくことになるだろう。
何ヶ月にもわたって、クーデター肯定派に招待状を送っていた共和人民党の人々や、彼ら(→共和人民党)が望むように民衆にそっぽを向いた正道党と祖国党の面々は、もはや狂喜しているかもしれない。
このような体制のうちに生きてきたわが身ゆえに、私は、トルコの知識人の一人として恥ずかしさをおぼえている。
トルコのあらゆる、恥を知り、威厳を備え、かつ愛国者たる民主主義者は、この反民主主義的な警告書簡に対し異議を申し立てられんことを望みます。

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:10764 )