Taha Akyolコラム:法と選挙
2007年05月02日付 Milliyet 紙

非常に多くのご意見を頂いている。民主主義だと拍手喝采する人々、政治的反動とののしる人々。政治的二極化の時代はこのようになる、白か黒か!
 しかし、社会や政治の現実は常にとてもカラフルだ;白と見ることも黒と見ることも必ずや部分的な盲目を生みだす!
 エーゲ大学のある教授は以下のように発言している:
「私にとって最も重要なのは共和国である、これがなければ法も何もなすことは出来ない。私が(憲法裁判所の)裁判官だったならば、下す判断が法的であるかは全く考慮さえしなかっただろう。私の決定は共和国に有利になっただろうに。しかし願わくば(裁判官達の)下す判断が合法的なものであり、また、共和国を護りうる決定であらんことを。」
 1つの話題に「かかわること」はこのように狭い考えを生むのだ!この話題は宗教でも世俗主義でも、共和国でも民主主義でも、環境問題でもフェミニズムでもいい、熱狂して周りが見えなくなる点ではみんな同じだ。
 話題が「科学」であっても状況は変わらない!たとえば「科学万能主義」は科学哲学において批判される熱狂の一種だ。

■政治的信条
 教授殿も共和国に拘泥するが故に法を軽んじている!
 この考えは「バース党主義」にまで行き着くだろう、何たることだ!
 彼に書いた返事で「きっと、法、社会科学、政治学といった学問分野とあなたは関係ない」と述べた。それから経歴を見た。事実、全く関係のない分野の教授だったようだ!
 もちろん「367票の条件」と固執するエンジニアの、または医者の学長達を覚えている!理論―実践の関係でファシズムの「まず実践、それから理論」の定義を、もちろん知識もないまま、ケマリズムといって学生達に叩き込む医学部の教授を覚えている!
「信条」をもたらした人達を、政治的イデオロギーのために「文明的な法律から死刑を撤廃した」法律家達を、クーデターを承認した学術関係者達を覚えている!
 しかし367票問題は宗教や信仰の観点から考察されえないように、アタテュルクの考えや革命からも考察することは出来ない!なぜならこれらは非常に一般的で抽象的な評価だからである。367票の議論は法的な問題であり、ただ「国会に必要な数」や「決議に必要な数」として憲法や国内の法令によって考えられるのだ。

■法の解釈
 法学において「解釈の規則」は非常に重要である。更に「憲法解釈」という学問分野もある。(フィリップ・ボピット、『憲法解釈』、オックスフォード、1991年。)
 法の解釈においてはまず法の言葉を、本文を見る。憲法は第1段階では「3分の2(の得票)により選ばれる」としている、「(3分の2が)集まり、そして選ばれる」とは書かれていない;投票のためには一般的な規則にしたがって(367票の半分である)184人で充分である。
 より「深遠な」解釈のため、条項の必要な部分を、法の意図するところを理解するために委員会の議事録を、立法の際の議論を参照する…基本になされた適用を見る…
 これらの全ては367票に関する申し立てが無効であることを示していた!
 しかし憲法裁判所は逆の決定を下した。エルグン・オズブドゥン教授の言葉を借りると:「運のない、否定的な決定である!我々の民主主義が支払った重い対価である。世論では政治的な決定として見られるだろう!」
 セゼル氏が任命した裁判官達はこれとは別の決定を下さないであろうことを、参謀総長の通達が影響するであろうことを書いた人達は、記した人達はこれから後も議論を続けるだろう。 
 重要なのは必要とする理由である;「解釈の規則」に憲法裁判所がいかなる基準で従ったのかを、必要とする決定の説明において我々は見ることだろう。
 まあともかく…現在の唯一の道は選挙である。終始一貫して私が主張するように、第102条に従って「早期の選挙…」を。

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( 翻訳者:関口陽子 )
( 記事ID:10784 )