Can Dundar コラム:ビキニと世俗主義
2007年05月21日付 Milliyet 紙

女性たちが何を着て何を着るべきでないかの議論が男性たちの間で続いている。
毎年夏前になると、我々は同じビキニメーカーの同じ写真が同じ広告パネルに掲げられることが国民の倫理を破壊し、世俗主義に打撃を与えるか否かを延々話し合っている。
「この写真の女性はとても露出が多い」と言う役所の男性は、「あなた方にかかれば(体の)全てを覆ってしまうんでしょう」と言うアパレル屋の男性と口論になる。
我々はといえば、21世紀にいまだ「体を覆い隠す」問題にはまり込んだままでいることに恥ずかしさを感じている。体を覆い隠す女性の服装が干渉に遭うことに不満を漏らす役所の人々は、体を覆い隠さない女性のポスターに干渉するときに罪悪感を感じていない。
自分たちの干渉によって「こういう人たちは我々皆の体を覆うだろう」という不安にも拍車を掛けている。
そして不安に思う人々を、ビキニのそばで無理矢理ひとまとめにしている。
イスラーム風スカーフに対してビキニは、世俗主義の旗印になりつつある。

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にもかかわらず重要なのは、誰も他人の服装に干渉しない、社会的に寛容な雰囲気を生み出すことができるということである...
世俗主義は本来これを保障するものである。今日(世俗主義を)誰もが自分の立場から定義しようとも、基本的に2つの側面がある。
1つ目は、信条の自由を保障することである...
2つ目は、宗教が政治的、社会的領域を覆い尽くすのを阻止することである...
誰も「なぜ頭を覆っているのか」と尋ねられないことが、世俗主義の第1の機能である。
「私のビキニ姿についてあなたにとやかく言う権利はない」と反論できることが、第2の機能である...
この2つの機能のグレーゾーンが、公共の場所で相互に敬意を払うことを求める作法である。すなわちこの国は世俗的だからといってモスクにビキニ姿で入ってはならないが、世俗的な国では小学生の子どもにさえ体を覆い隠すことを強制することはできない。
これが誰もに最低限共通した生活空間を生み出している。

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昨今の議論で私が不愉快に思う面は次の点だ:
最近、我々は世俗主義を「ビキニ、酒、不貞行為」の面から擁護するようになった。
一部のおせっかいな役所は、酒を出す食堂に営業許可を出していない;なぜなら我々はそこで酒の出る会合を開いているから。
ビキニの広告が禁止されている;なぜなら我々は気前よく胸元を開けた(服を着た人の)ポスターを張りに出かけるからだ。
政府の支持基盤にウインクするために不貞行為を処罰しようと試みている;なぜなら我々は「不貞行為は我々の権利であり、是が非でも得るぞ」と叫んでいるからだ。
これらのせいで我が国の宗教心の篤い層は、世俗主義を「さかりのついた雄ヤギ症候群」とごちゃまぜにしている。
テレビに映るパパラッチ映像と同じものだと思われている。

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しかし実際は、例えば強制の宗教授業は、ビキニ姿の広告の禁止よりも世俗主義にずっと深い傷をつけているのだ...
小学校に通う私の子どもは、宗教の授業で話されることと、アタテュルクの書いた本である「文明の知識(Medeni Bilgiler)」や生物学の本との違いを埋めるのに苦労している。
世俗主義は、国の問題を「ウラマーにも尋ねておこう」と言う首相や、「篤信家の大統領」を望む国会議長、あるいは「ぺっ」と銅像につばを吐く地方役場の首長や、「胸元の大きく開いた(服を着た人が登場する)広告は禁止」という了見の狭い人々からより被害を受けている...
その一方で、世俗主義が襟ぐりの深さを通じて擁護されるようになったことは、人の身体が(単にビキニについてだけでなく、身体のいろいろな部分について)欲求を喚起する広告の構成物として陳列されることに長年反対してきたフェミニストや革命主義家の見解を押さえ込み、彼らを広告屋と同じ列に押し出した。

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世俗主義は我々を、惨めなイスラーム地域から区別するとても重要な要素であり、篤信家の存在を保障するものでもある。世俗主義を単に「ビキニ、酒、不貞行為」におとしめないでおこう。

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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:10952 )