Turker Alkan コラム:ブーイングの相手は?―「かつて」のデミレル?「今の」デミレル?
2007年05月25日付 Radikal 紙

(イスタンブル・)ビルギ大学の20歳の意気軒昂な学生。彼の目の前に居るのは、齢80を過ぎた(スレイマン・)デミレル。何度も首相を務め、大統領を務め、クーデターを目撃し、コトの当事者であった御仁。この若者がデミレルから学ぶようなことは何ひとつない、と言えるだろうか?
しかし、若者はいきり立って言い放った。「私の祖父はアンタの言うことに耳を傾けた、父だって、私だって。もうたくさんなんですよ!」
二律背反とは、まさにこのことに違いない。我々国民は、デミレルの話に耳を傾けるべきではない時に彼の話に耳を傾け、聴くべき時に「聴くもんか!」と掌を返す。あっていいことではない。
デミレルに対しては、ビルギ大学学生だけではなく、以前にもアンカラ大学やビルケント大学の学生も反発し抗議したのだった。私は、こういった類の「何でもかんでもダメと言う人々」の態度や対応には反対である。(それは)いくらかの根拠があってのこと。

まず、原則から始めることにしよう。大学とは、思想の自由の聖域である。そこでは、あらゆる思想が自由に主張され得るべきなのである。様々な思想に、力ずくや暴力で対応するのではなく、それらの思想に対抗する(別の)思想によって応じるべきなのである。語り手の話に耳を傾けるのが嫌なら、(その場から)出て立ち去ればよい。しかし、語り手を力ずくで黙らせる権利はないだろう。
デミレルのような国家の要人を押し黙らせてしまうような場では、そもそも、誰か国民が発言する権利なぞ皆無だと考えられてしまうだろう。大学において暴力が存在するこの国では、民主主義の健全な運用も望むべくもない。

次に、単なる行動規範であるが、私はそれが大事だと考えているのである。80歳のデミレルは、これらの大学によって来賓として招かれたのであった。もしや、若い学生たちが、来賓の方々に対して、これ以上敬意を払う必要はないとでも?分かっていますよ、この文章を読んだ若い読者の中には、「ええ、そうだとすると、(そう言う)アンタも奴のように老いぼれてしまったんじゃないのか?」と考える人がいるでしょう。そうなのかもしれません。しかし、私は人がそれぞれに払う敬意や、敬意を払って対応することを大事だと考えているのです。

第3に、若くいきり立った学生たちは、どのデミレルにブーイングを浴びせたのか自覚しているのだろうか?そもそも、デミレルはひとりではないのだ。「青年デミレル」は宗教を利用するような、手に『コーラン』を携えて集会の広場で演説を打つような、「アッラーへの祈りの言葉を指し示す手と、銃の引き金を引く手は、ひとつの同じ手なのでありましょうか?」とか、「あなたらが私に、右派が人殺しをしている、と言わせようとしても無駄ですよ」とか口にしたような、2度に渡って民族主義者戦線を設立したような、そして流血の事態に道を開いたような、そんな政治家であった。(この「青年/政治家デミレル」が)行政裁判所、憲法裁判所、大学自治会・・・といった組織について非難したのである。
しかし、今ここにいるデミレルは、世俗主義、司法、諸々の自由に対して敬意を払う指導者の姿を描いてきた。この国と世界の成り行きの諸要因を調べ上げ、問いかけ、解決策を生み出す、そんな新たなデミレルが、我々の前に出現したのだ。

「確かにそうだとしても、遅すぎやしないか?80歳を越えた御仁に何ができよう?」といわれるだろうか?おっしゃる通りかもしれない。けれど、このような御仁の中身や経験が、たとえ誰の役に立つわけではなくても、大学生時代の若さ(若者)にとって役に立たない、ということもあるまい?


よくよく考えて欲しいのだが、だからこそ、トルコの若者が問いをぶつけ、返ってくる答えに耳を傾け、自分なりの解釈をする必要があるのではないだろうか?
しかし、そのためには、知識、能力、そして知性が求められる。人にブーイングを浴びせるというのは、よりたやすく、同時により見せかけだけのものだ。より「男らしく」、より「毅然と」も見えるが。

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:10978 )