Mustafa Kutlu コラム:都市にいる村人
2007年05月30日付 Yeni Safak 紙

都市を農村から区別する最も重要な要素はヨーロッパ的な意味では農業と産業であるに違いない。産業(化)以前の都市はまた別の問題である。

話題を我が国に移せば、問題はごちゃごちゃの状態になっている。なぜなら我が国にはヨーロッパ的な意味での産業化はなかったからだ。

我が国の古い都市は、今から50、60年前まで農業や自然と断絶してはいなかった。したがって村人と都市民との間の根本的な違いについて言及するのは困難だった。

これはもしかしたら我が国の近代化の歴史のもたらしたヨーロッパ的-トルコ的という区別によっていくらか説明されうるかもしれない。つまり都市に住む者が(少なくともその一部が)ヨーロッパ的な生活様式を身に付け、このために支配文化ー支配資本の後ろ盾により彼らは「都市民であること」の旗を掲げたと言うことができる。農村において「ヨーロッパ的な」生活の痕跡に遭遇することは難しい。

今現在について言えば。村人は、そう、あれやこれやの理由により移住を余儀なくされ、街に出て、村人(農村の居住人口)は我が国の人口の30パーセント以下に留まった。

ある新聞の主筆が、公正発展党(AKP)政権は「最後の村人政権」であると主張した。根拠のない、誤った、つじつまの合わない主張だ。現在、我が国の隅にある辺境を別にすれば、すでに都市と農村の間の格差はほとんど埋まった。村の道の大半はアスファルトである。通信手段は都市と同様である。現代的な技術を用いた装備(トラクター、コンバイン、テレビ、冷蔵庫、携帯電話、人工肥料、さらにはコンピューター、インターネットカフェ)は、小さな町や放棄されていない村々に定着した。

識字率は90パーセントを突破した。すでにアールやケルキット、シェファアトリ(※いずれもアナトリアにある町の名前)の田舎で羊飼いをしている村の子ども達のTシャツには「Boss」と書かれている。彼らの両親はある日にはベルリンに、次の日にはストックホルムにいる。

都市に移住した村人は「アラベスク」文化しか身に付けられない。例えばイスタンブルはすでに流入する人口を吸収することができず、それ自体が1つの巨大な村になろうとしている。周縁の町ではとても多くの人々がやって来た日からこれまで海を見たことがなく、映画館や劇場、コンサートや講演会、展覧会に行ったことがなかった。

そもそもこうした事全ては裕福な人たちができることである。村人が街へ移住するのはケーキの分け前にあずかり、生計を立て、子どもにしっかりとした将来を保障するためである。

今の政府の努力にもかかわらず、都市にいる村人はいまだに村人であり、貧困境界線の下で生活している。30パーセントの(農村に住む村人の)上にさらに30パーセント(の都市に住む村人)を加えてみれば、(今の様相を表す)絵が完成する。彼らは支援の手を同郷人協会や宗教教団組織、家族関係の中で見つけている。可能ならば村との関係を断たずにいる。

このことを理解するには、バスターミナルやハイダルパシャ駅に行けばよい。アナトリアからやって来たバスの荷室から出てきた小荷物や一斗缶を見ればよい。油やチーズ、小麦粉、ブルグル(挽き割り小麦)、干した野菜や果物や似たような食べ物が村に残っている親戚から送られてきている。ここから、またはヨーロッパから村に残っている人たちにお金が送られている。

都市の構造において「変容」が生じているが、これはその性格上とてもゆっくりと進行している。50年後にどのような都市や都市民と出会うのか想像することは難しい。トルコは近代化すればするほど宗教心が増してきており、これもまたこれまでの通念を覆したことである。

もしかしたらこの10年間の最初に主張された次のテーゼが現実化しつつあるのかもしれない;「西洋の学問と技術、イスラームの道徳と美徳」。私はここでテーゼの弱点に言及しよう。国民(村人)によって楽に取り入れられた近代技術は根本的な変容を引き起こしている。

台所ロボットの入りこんだ台所ではもしかしたらすでに木のスプーンは問題外なのかもしれないが、それでもやはりヨーロッパ風のトイレの使い方が(トイレの使い方)全てを席巻したとは言えない。

我々は近代的な建物を建てることができる。しかしそれを使うであろう都市の村人はトイレがメッカの方向を向いていることを受け入れることができない。

この枠組みから見ると、AKPは(変化や変容(を促す)言説にもかかわらず)トルコ風の勢力の政権である。これは政権党が変わっても長い間続くだろう。なぜなら我々の文化的な蓄積や信条、伝統がヨーロッパ風の生活様式に抵抗しているからだ。さあ気持ちをやわらげよう:ズボンにジャケットを着ているが、頭は覆っている。これを「保守主義」と言うことができるだろうか?

「我々は我々に似ている(我々はやはり我々でしかないのだ)」という言葉を無視してはならない。

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Taha Akyol コラム:国内移住と社会統合(2007年03月29日、Milliyet紙)

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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:11028 )