Turker Alkan コラム:政治的道具としてのスカーフ
2007年06月02日付 Radikal 紙

ここのところ、アブドゥッラー・ギュルが(一般に)目されていたような御仁では全くなかったと私は考えつつある。あの、穏やかで笑みが絶えない、物静かで経験に富んだ、懐が深く話のわかる外見の下には別の人柄が横たわっているのだろうか?と自問しはじめた。当初遠慮がちに「では、失礼にならないように」と言って受諾するかのように行われた大統領選立候補の地位に今や彼がしっかりとしがみついていることの裏側には、(同職への)鋼のような意志と深い政治的野心が窺われる。

「いまだ大統領候補なのですか?」という問いに、(ギュルは)何ら動じることもなくこう語った。「まさしく、私が候補です。」

もちろん当然ですね。そうでしょうとも。しかし、「新たに生まれる選挙後の状況を踏まえて状勢を評価した上で、立候補については決断を下すつもりです」と語ることは、彼の脳裏にさえ浮かんでこないままだ。政界で到達しうる最高の地位が持つ魅力に捕らわれないでいることは、きっと不可能なのだ。

ギュルの(内面の)深いところにある人柄についてヒントを与える別の表現は、エルトゥールル・オズキョクとの会談で彼が語った言葉であった。彼は「大統領に選ばれれば、私はスカーフを現代化することについて努力することになるだろう」という意味合いの発言を行った。この発言は、明らかに、たまたま口をついた発言ではなかった。計算ずくの発言だった。それらのうち最大の計算こそが、いまだ大統領候補であるギュルの選挙(向け)公約である、と評価されるべきである。「私が選出されれば、私の妻がスカーフを被っていることを原因とする難題なぞ出てくることはなく、まったく逆に、スカーフにまつわる難題をきっちりと解決するため、実践的な歩みを踏み出すのです」と言うに及んだのだ。

この言い方だけをとってみても、よく分からない点がいくつかあった。そして、世論で様々な議論が出てきたのである。

論点その1。スカーフが一体どうすれば「現代化」できるのか、誰も分からなかったのである。「現代化」されるのは、色使いだろうか?形状だろうか?結び方だろうか?定かではなかった。そして、この問題についての決定の権限を持つのは誰になるのか?

論点その2。「スカーフを現代化するつもりです」とは、つまり「現在の(行われているような)被り方では、スカーフは現代化に逆行しているのだ」という意味合いを含んではいまいか?ギュルがこのような物言いで、「この国のトップにいる人々の妻はみんなスカーフを被っているが、これは現代的な姿を反映したものではない」と言う人々を正当化してしまったことにはならないか?

論点その3。ギュルさんが大統領になった場合、彼はスカーフを現代化することになるだろうが、外相としてどうして同じことをやらなかったのか?大統領職にとって適切ではない事柄が、どうして外相職にとって適切だと考えられたのか?外相とは、世界中に(向けて)、わが国を代表してはいないのか?妻と共に、時代はずれの装いで、世界中に(向けて)わが国を代表することは正しいのだろうか?

論点その4。仮に、アブドゥッラー・ギュルが「スカーフを現代化できる」だけの力の持ち主であるとすると、「このスカーフと呼ばれるものが、考えられているほど自然に」現在のような形になったのではないと我々は考える必要がある。命令ひとつでスカーフを現代化できる御仁は、必要に応じてスカーフを廃止することもできようし、そもそもスカーフの存在自体が、このような指令と命令によって実現したのかもしれない。

私が述べたこれら全てを、アブドゥッラー・ギュルさんはご存知ないのだろうか?もちろんご存知だ。にもかかわらず、どうしてこのような発言をしたのだろうか?可能性はふたつ。この国の民衆は我々が何を言っても鵜呑みにしているので、この問題についても疑うことなく受け入れるはずだと考えたか、あるいは、待望の大統領職という煌きが彼の両眼と理性をくらませてしまったか。

どう考えても、スカーフが政治的道具として利用される状況が、今回もまた明るみに出てきているのである!

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:11051 )