Hayrettin Karaman コラム:最大の脅威とは
2007年06月03日付 Yeni Safak 紙

(『ラディカル』紙のコラムニスト)イスメト・ベルカンは、先の金曜日のコラムを次のように結んだ。「公正発展党が7月22日の総選挙でひとり勝ちではない場合、あるいは大きく議席を失う場合、クーデターの危険性は霧散する。その場合に我が国の民主主義がどういったものになるか議論することは可能であるが、少なくとも日常的にクーデターの危険が存在する状況には幕が引かれる。しかし、そうではなくて、公正発展党が勝利し、またも単独で政権をとることになれば(私見では、どうあっても今日のような多数を維持できないであろうが)、7月22日から11月末まで、我々は刃を抜き合わせたようなひどく緊迫した日々をすごすことになるだろう。そして大統領選までそのまま何とか辿りつけるだろうと私は願っている。しかし、大統領選に辿りつけば、トルコにおける民主主義は、その成熟ぐあいを証明したことになる。投票箱から大統領として誰が登場することになろうとも、それはそういうことなのだ。この国の歴史で初めて、選挙を通じてクーデターの危険がなぎ払われ、体制の上に現存する軍部の影が、おおかた取り払われたということになる。」

ベルカン氏はそのコラムの冒頭で、(同氏が)かのご存知の声明(→Web上に公開され、後に削除された参謀本部の声明のことを指す)をも「貴方たちがギュルを大統領に選べば、私はクーデターを実行するぞ」といった形で理解していると明示している。

仮に、考えられているような、そのような解釈が正しいのであれば、トルコで暮らし、この国土と国民を愛し、救済を民主主義に見出す国民はみな、唯一の危険(脅威)に関して結束する必要がある。つまり、わが国における――他のあらゆる危機よりも深刻であるだけに――唯一の脅威は、「軍部が政治に介入することであり、クーデターを実行し統治能力を手にすることであり、いまだ健全にも完璧にも達することができないでいたこの国の民主主義を葬り去ること」である。この脅威を覆い隠すため、注目を他の点に向けさせるため、そして人々を心理的に(恐れさせ、死を示して震え上がることを甘受させて)クーデターに備えるために、少なからざる恐怖と脅威が作り上げられた状況にある。これら(恐怖や脅威)のうち最も深刻なふたつは、分離主義を掲げるテロ、そして反動である。

反動の脅威について、我々は何度となく書いた。つまり、トルコにはより敬虔に生きようとする志向と活動があるのだが、他者にイスラムを無理強いしたり強制するような体制を目指して邁進するような、そのために組織化されるような、そして、目に見えて活動しているような深刻な(恐れられるような)存在はないのである。

分離主義を掲げるテロについて言えば。

テロは、それが分離主義的であるかどうかに関係なく、糾弾され、克服され、一掃されるべきなのである。とはいえ、その方法は、民主主義を廃止するとか、軍部が政治に介入するといった方法によってではない。なぜなら、この問題は、テロと同じくらい疑問符のつく問題だからである。

分離主義な組織や活動は、明らかに賛成できるものではない。国土をわずかなりとも切り取ろうとする者は罰せられる。しかし、合法的な政治の枠組のなかで活動する政党は、分離主義を望んではおらず、国民的一体性と、全体性を保証する「権利を要求する立場で」あると主張している。これらの要求の中に、分離主義に繋がるような要求が密かに紛れていれば、それらは明らかにされ(それが実現する余地は)与えられないのである。虐待されたとか、抑圧されたとか、見下されたとか、圧迫されたといった感情を培うような不正があれば、それらは廃止され、必要な権利が与えられる。そしてこれらは全て、民主主義の枠内で行われる。つまり、破壊や殺戮によってではないし、現にそうではないのである。そうであるように見えても、すぐにそうはならないことが明らかとなり、溝はより広がり、そして、その修復はより困難な状態になる。

さて、コラムの冒頭に戻ろう。反対派がおっしゃることが現実となれば、民主主義は傷つけられ、クーデターが起これば、この国は立ち上がれないような深手を負うのだが、民主主義が機能し、投票箱に(有権者の)選択が示されれば、民主主義と国家のいずれもが勝利を収めたことになる。

良識をお持ちの反対派諸兄は、この明々白々な結果を無視しないことが必要なのだ。

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:11056 )