解説 オズブドゥン教授: 2つのトルコがあるのだろうか?
2007年06月03日付 Zaman 紙

国内外でトルコの動向を観察している一部の人々は、4 月14日のアンカラでの世俗派集会を2つのトルコがあることの表れと解釈した。この解釈は、エルドアン首相、デニズ・バイカル共和人民党党首、そしてメフメト・アアル民主党党首によって批判されたが、そうした批判は正しい。この件に関する経験的なデータを分析する前に、このような印象がなぜ生じるのかについて考えるのが適切だろう。

何よりもまず、世俗派集会に参加した何十万人もの人々のことを宗教の敵、民主主義否定者、クーデター支持者とみることが大きな間違いであるように、集会に反対の姿勢をとっている人たちを、反動主義者、シャリーアを支持し、裏切り者という言葉で表現することも間違いだ。
集会の実施が民主主義の権利であることは疑いの余地は無い。もし集会が、アタテュルクと世俗共和国の原則への帰属意識を強調するためだけのために催されたのであれば、 トルコでこれを認めないという人はほとんどいない。しかし、集会でなされた一部の演説と、使われたスローガンが、この目的を超えるものだったことは明らかだ。

例えば、集会に参加した何十万人もの人々の大多数が、トルコの西側同盟への帰属、見込まれているEU加盟、自由市場経済、民営化、信教・良心の自由といったことで、相反する思想をもっているとは思えない。集会で一部の演説者が革命主義を強調したことは不幸であった。

民主体制のなかでの変革は、革命ではなく進化によって、つまり大衆が憲法および法制度の中で決める自由意志によって実現する。これは広く知られる必要がある。
革命的正義が正義からかけ離れているように、革命的民主主義(こういう概念があるとすればだが)も、民主主義からかけ離れたものだ。

■世俗主義と民主主義の間に矛盾はない

トルコでみられる世俗的価値観と一部イスラーム的起源をもつ保守的価値観との間の衝突は、今に始まった問題ではない。その上、この衝突を世俗主義とイスラーム主義という軸線上の対立と位置づけることは、誤った印象を生じさせるものだ。というのも後述するように、保守的な考えに理解を示す広い層の大半の人々は、イデオロギーである政治的イスラームとは無関係なのだ。
過去10年間の政治的言説を調べてみると、1950年以降、政権を握った中道右派政党のどれもが(民主党、公正党、祖国党)、世俗国家の原則を弱体化させ、世俗主義を空洞化させたと非難されてきたことは容易に見てとれる。さらに、反革命主義は複数政党制の成立とともに始まったという非常に極端ないくつかの思想もある。現在では反革命はすでに消滅したという主張がなされている。今日でも一部の層が公正発展党政権に対し感じている不信の根本には、約60年間続いてきたこの衝突がある。

しかしながら経験的なデータは、トルコの世俗主義に対する社会的支持は、一部の層が考えているよりずっと強固であることを示している。以前、2つの記事でとりあげたとおり(Zaman紙:2007年4月7日、18日付)、2006年実施の広範囲を対象とした世論調査では、シャリーア(イスラーム法)国家を支持する人はたった8.9%であり、反対する人々の割合は76.2%であった。さらに、1990年代半ばには25%近くであったシャリーア国家支持者が、かなり減少したことを示している。回答者の73.1%が世俗主義はおびやかされていないと考えており、76.9%が民主主義は他のあらゆる政体のなかで最良だと答え、79.9%が、自分の望むように自己表現できる自由がいかなるかたちでも制限されてはならないと答えている。

回答者の84.2%は、投票する際その党が世俗的共和国の価値を信奉していることが重要な判断材料であるとし、また78.2%はイスラーム的価値を重視していることが大事だと考えていた。この調査結果は、民衆の大多数の目には、世俗的価値観への帰属とイスラーム的価値観への帰属が矛盾と映っていないことを示している。さらに、大多数が世俗的価値観と民主的価値観を大切にすることに加え、宗教的自由が広げられることにも賛成していることが示されている。

例えば、大学で女子学生が希望するのであれば頭髪を覆うことを許可すべきという人の割合は71.1%であり、これに反対する人の割合は19.4%である。これに対して回答者の79.9%は、女性がアッラーと預言者を信じているのであれば、頭髪を覆わなくともムスリマであるとみている。これに回答者のわずか12.1%が反対している。同様に、イマーム・ハティプ高校の卒業生が大学入試結果に沿って希望の学部に入学できることを承認する人の割合は82.4%である。

このデータは、トルコ社会の大多数にとって、世俗的価値観や民主的価値観と宗教起源の保守的な価値観の間に対立がないことを示しており、喜ばしいものだ。実際、世俗主義と民主主義の間には概念的な観点からも矛盾はありえない。世俗主義が民主体制の絶対必要条件であると同様に、本当の世俗主義と本当の信教・良心の自由は、民主体制の下でのみ実現しうる。神学的民主主義は理論上も不可能であると同様に、過去に経験的事例もまったくない。

他方で、私の以前の記事で示したとおり、有権者の約4分の1という過小評価できない少数派が、世俗主義は危機に瀕していると見ており、そして約10%とさらに少数ではあるが、無視されるべきでない少数派がシャリーア国家を擁護し続けている。この二つは上述した楽観論にいくつかの難点をもたらすことは避けられない。

世俗主義-イスラーム主義の衝突の緩和が、民主主義の強化に極めて肝要であると考えると、与党にも野党にも重要な任務が待っている。両極端の偏った言説が政治世界に蔓延する隙をみせてはならない。そしてお互いに売国奴と言い合うような糾弾を避けるべきであり、お互いの相違点に対して敬意をもって接するべきだ。二つのトルコの存在ではなく、基本的価値観において大半を共有するひとつのトルコの存在が強調される必要があるのだ。

ビルケント大学教授
エルグン・オズブドゥン

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( 翻訳者:幸加木 文 )
( 記事ID:11095 )