Ismet Berkan コラム:参謀総長は何を望んでいるのか?
2007年06月11日付 Radikal 紙

参謀総長のヤシャル・ビュユクアヌト大将は、先週の木曜日の晩にフィンランド大使館でのレセプションに出席した。ここで新聞記者たちはビュユクアヌト大将の周りを囲んでいつものように彼に質問の雨嵐を降らせた。
いつものように、と私が言っているのは、ビュユクアヌト大将はどういうレベルの記者とも笑顔で話し、質問にも必ず答える参謀総長だからだ。これまで新聞記者が参謀総長とこのような質問-返答のやり取りをこれほど頻繁に行うことはできなかった。

ともかく、やはりいつものようにビュユクアヌト大将に越境軍事作戦とテロ対策についての質問が向けられた。ビュユクアヌトもこれまでの返答をおおよそ繰り返した。しかし私には1つの違いが感じられた。分離主義者によるテロが1990年代ほどの水準にはなく、その水準に達することも考えていないと述べ、まさにある意味で(主張の)トーンを落としたのだ。

しかし同じ晩、しかも真夜中を過ぎてから、いくつかの項目がトルコ語の表現としてやや破格で、このことからもまるで大あわてで準備されたという印象を与える「発表」が参謀本部のホームページに掲載された。
まず第1に、発表のタイミングが本当に奇妙だ。至急に、時間をかけずに知らせなければならない通知だったのだろうか、夜中にホームページ上に上げられた。
第2に、参謀総長が数時間前にクルド労働者党(PKK)のテロが90年代の水準にはなく、またその水準に達することはないと発言したことと、この通知のタイミングや形式の間には果たして関係があるのだろうか?

発表の内容もまた私にはとても不可解だ。トルコで特定の瑣末な勢力を除いた誰も、トルコのテロ対策の合法性に疑問を感じていない。(その瑣末な勢力というのも本当に瑣末である。つまり数の上でごく少数だ。)トルコメディアは一致結束して事あるごとにテロを非難しており、誰もが(テロ対策活動で亡くなった)殉職者に涙を流している。昨日(6月10日)の本紙でハサンおじいさんが殉職した孫の写真に口づけをして愛おしんでいる姿を写した写真を見た何人の人が涙をこらえられただろうか?
殉職者の葬儀はすでに行われるたびに集会と化している。先日シュルナクであったばかりの葬儀では、トルコ語とクルド語の両方でテロとPKKに対する非難が出された。土曜日に同じくシュルナクでは1万人以上の人が参加し、自然発生的に大規模なデモ行進が行われた。
これらのこと全てにもかかわらず、人権と民主主義について何か述べる人全てをまるでPKKの仲間でありテロを支持しているかのようにみなす発表をすることの必要性など、誰も私に説明することはできないだろう。

このことだけではない。テロに反対する社会的な反射行動を求めることは参謀総長の役目だろうか?
同じことを政府が求めたり、ある政党が求めると、我々はテロとの戦いと殉職者の血を政治の道具にしている、と言ってそれに批判の嵐をお見舞いしたものだった。参謀総長が求めるのなら、我々はこの要請をどこに持って行き、どのように解釈するのだろうか?

参謀総長の要請はすぐに反応を得た。いくつかの「市民」社会組織が状況を察知してその役目を買って出て、6月24日に最初の集会をイスタンブルで開く予定だ。このような集会が選挙のムードに影響を与えない、あるいは選挙のムードが集会によって影響を受けないと言えるだろうか?集会の主催者の1人または数人がある政党の国会議員候補者であることはごく普通のことなのだろうか?
参謀総長は土曜日に会見し、発表と同じ日に労働者党(İşçi Partisi)によってディヤルバクルで行われた集会とは無関係であると説明した。このように述べる一方で、通知を出した当日に起こった「破壊活動や、無実のクルド人同胞に向けた様々な攻撃が起こったなら(どうするのか)」という批判にも返答し、通知にある行動の呼び掛けの意味をより明確にした。

明確にはなったが、本当に望んでいない出来事がトルコで起こったら?あるいは先週アダパザルでアフメト・カヤ(※)の写真の入ったTシャツを着た人3人がリンチされそうになったような事件が広まればどうなるのか?
参謀本部の最新の通知は、この国で喜びと悲しみを分かち合い、いつも一緒に、平穏の中で生活する理想にどれだけ貢献したのか、またするのだろうか?


(※)トルコ人の歌手(1957-2000)。1993年にベルリンで行なわれたクルド人組織主催の集会でコンサートを開いたことが原因で、国家治安裁判所(DGM)から有罪判決を受けた。参考:ウィキペディアトルコ語版

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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:11122 )