Turker Alkan コラム:公正発展党は「清廉潔白」党か?
2007年06月16日付 Radikal 紙

名は体をあらわす、と先人たちは言った。つまり、名前と同等の存在であるのが人間だということだ。しかし、きっと皆が皆、名が体をあらわしている訳ではない。お子さんに「チュナル」(「プラタナス」の意)と名づけ、あんなにも目を掛け(たにもかかわらず)、その果てはせいぜい「チャル」(「低木、茂み(*)」の意)のようなシロモノになるばかり。「イフェト」(「純粋」の意)と名づけると不純になるし、「イート」(「頑強、剛毅」の意)と名づけると軟弱になる。

しかし、それでもやっぱり、見栄えのよい名前をつけようと我々は夢中になる。ちょうど「清廉な」党こと公正発展党(**)のように。名が体をあらわすためには、この政党は不正と距離をおかねばならなかった。単に距離をおくだけでは不十分で、不正に対して積極的な対抗策を講じていくことが期待された。たとえば、国会議員の免責特権(の対象)を立法活動に制限し、(その対象が)不正行為にまで及ばないようにすることが期待された。さらに、「清廉な」公正発展党は、政権に就くや、それを実行する予定であるとも公言していたのだった。

しかし、彼らはやらなかった。まさに言い訳として、「官僚にも免責特権があるが、まず、そちらを廃すべし!」と彼らは言うのだった。いわく「それならそれを廃止せよ!」しかし、これにもまったく手をつけなかった。

不正は、公正発展党期すなわち「清廉な」時期に、減るどころか、逆に増えた。特に、公正発展党系の各地方自治体は、政治的宣伝や党組織確立の中心となったばかりでなく、不正の中心ともなった。公正発展党系の人々でさえその様々な不正に懸念を表明したのである。この状況はある種の矛盾を象徴している。「清廉な」公正発展党は、宗教的かつ保守的な志向を抱く人々の党であると主張する。しかし、4年半の彼らの活動を見やると、全くそうではなかったことを我々は目にするのだ。

目下「清廉な」党の首脳を形成している人々の大本を眺めてみると、似たような構図を我々は目にすることになる。「清廉」な党の父親(的存在)である福祉党の首脳の多くは、党への助成金を濫用して有罪となった。そのうえエルバカンをはじめとして(!)、公正発展党の方々の中には、免責特権の鎧にまもられて、いまだその刑罰から逃れたままの方もいるという。このような状況は、エルバカンさんにとっては初めてのケースではなかった。かつて国家救済党の時代に彼は与党側にあって、あんなにも多くの不正に関与していたので、ついにはそれらを取り繕うために、エルバカンは歴史に残る言葉を口にしたのだ。いわく「私個人にとってのハラーム(イスラム的観点から禁じられる事柄)が、我が党にとってはハラール(イスラム的観点から許される事柄)なのであります!」

つまり、彼が言わんとしていたのは、こういうことだ。「そう確かに、不正は行われているが、我が党のために我々が行っているのだから許される!」
左翼運動が勢いづいていた頃、左派の人々は、不正を正当化するためにこれと同じような論法でもって言い張るものだった。「資本家の富をかすめとるのは、道徳に逸れたことではない!彼らが労働者を支配することで得た富を我々が取り戻している、それだけのことだ!」

まさにチェティン・アルタンが、当時最も先鋭的な言葉のうちのひとつを、こう口にしたのだった。いわく、「左派が嘘をつくことはない!」

しかし、この世のさまが我々に示しているのは、右派であれ左派であれ、嘘をつくことも、不正に関与することも、どちらもあり得る話だということ。
実際には、名は体をあらわすということは無いらしい。



(*)ちなみに、英語ではbush(ブッシュ)。

(**)原題、および本文中の(AKP)AK Partiは、公正発展党の略称AKP(或いはAK Parti)に、「清潔な、清廉な、白い」といった意味を持つ形容詞ak(アク)を引っかけた一種の言葉遊びである。

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:11161 )