Can Dundar コラム:誰にとってのミッドナイト・エクスプレス
2007年06月18日付 Milliyet 紙

ビリー・ヘイズの名が、おとといのミッリイェト紙の見出し記事の中にあった。「ミッドナイト・エクスプレス」の本物のヒーローが罪を告白した。

「トルコは、この映画がもたらした悪い印象に相当しなかった」と述べた。これは32年遅れた弁解。ミッドナイト・エクスプレスは、ヒーローが後悔したことを正しいとするほど人種差別的な映画だった。私はここで映画以上に、ヘイズが拷問を経験し、重罪に処されることとなった出来事の背景に触れたい。なぜならばことは、いまだ現在の次元の話もあるからだ。

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第二次世界大戦後、アメリカでは麻薬が爆発的に増加した。それほどの状況だったので、1968年のアメリカ大統領選挙において、(リチャード・)ニクソン氏の基本公約の一つは、麻薬問題の解決だった。ヘロインの原料であるアヘンが、合法的に10カ国ほどで栽培されていた。これらの国の中にトルコもあった。(詳細参考:バスクン・オラン『トルコ外交』第一巻, イレティスィム出版, 2001年)

『1969年以降、ニクソン政権は、アメリカ合衆国に密輸されるヘロインの80%がトルコ産であるとの主張をささやき始めた。新聞紙上で、トルコを非難するニュースや記事の数が増えた。』

実際にはトルコで一年間に栽培されたアヘンは、合衆国のヘロイン依存者の一か月分の需要でさえも満たすには十分ではなかった。またアメリカは、ケシ生産を完全に根絶させるためにトルコに圧力をかけ、それに対し(スレイマン・)デミレル政権はこの圧力に抵抗していた。

しかし1970年に合衆国の<リチャードソン>国務長官が、「トルコがケシ栽培を止めないのならば、援助は見合わせる」と発言すると、閣議はケシが栽培されている作付け地を制限するという決定を下した。

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そうした中、22才であったビリー・ヘイズは、1970年のまさにこうした状況の中、観光客としてトルコに入国した。市場で見つけた大麻をアメリカに持ち帰ろうとした際にイェシルキョイで捕まった。ヘイズが起訴裁判されている中、トルコでは(1971年)3月12日にクーデターが起こり、任に就いた(ニハト・)エリム政権は、アメリカの要求に従い、1971年以降ケシの栽培とアヘンの生産を完全に禁止した。

アメリカは、密輸業者に対し処罰をおこない、見せしめの罰に処すよう要求した。ヘイズは杖で打たれ、懲役30年の刑を食らった。

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トルコは約束を守った、しかし合衆国はそれに応えなかった。ケシの生産者の損害を補償するという発言にも関わらず、約束した援助の3分の1だけを送った。このためアヘンで生計を立てていた凡そ10万の家族は、大きな損失を被った。

1973年の選挙で任に就いたエジェヴィト政権時代の共和人民党(CHP)・国民救済党(MSP)連立政権は、生産者の損失を除くために、1974年7月1日にケシ栽培を再び自由化した。

アメリカはこれに対し大きく反発した。トルコに対し、経済的・軍事的援助を見合わせることを決定した。その後、通商禁止の決定が出た。緊張は、キプロス紛争にまでに及んだ。

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アメリカが、重い刑に処せられることを望んだヘイズも、この間にイムラル島刑務所から「脱獄した」。1975年に海岸に放置されていた舟でギリシャに移動し、そこからアメリカへと帰国した。

アメリカのメディアによってヒーロー扱いされた。刑務所での記憶を多少誇張して執筆した。オリバー・ストーンはこの細部を全く誇張して脚本を書いた。アラン・パーカーは、そのシナリオをさらに誇張してマルタ島で映画を撮った。全てのトルコ人に対して酷い役を割り当てた。映画は、30年にわたりトルコを煩わせた。

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思うに、ヘイズの処罰も英雄化も、ケシ栽培に関するものだった。アメリカに抵抗した代価をトルコに支払わせたのだ。「ミッドナイト・エクスプレス」をさらにこの小史とともに辿ることには意味があろう。

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( 翻訳者:山本裕一 )
( 記事ID:11180 )