Hasan Cemal コラム:ブレアとバイカルの違いは何か
2007年06月30日付 Milliyet 紙

1995年12月のことだった。私は、(デニズ・)バイカル共和人民党(CHP)党首が、(トニー・)ブレア英国労働党党首と会談をもったロンドン訪問を追っていた。トルコでは冬の最中選挙戦に入り、バイカルは(正道党党首のタンス・)チルレルとともに 正道党(DYP)-共和人民党連立を準備していた。選挙前にブレアと会談したことは、一方ではバイカルの選挙キャンペーンの一環であり、他方では欧州連合(EU)内部の社会民主主義者からトルコの関税同盟(入りへ)の支援と関係したものだった。

バイカルがその当時、範をとったと見られていた2人の社会民主主義者のリーダーが欧州にいた。一人は、スペインの社会主義者のリーダーであるフェリペ・ゴンザレスであり、4期連続で選挙に勝利していた。第4期目に首相の重職に就いていた。そして、スペインをEUへ加盟させた政治家という形容を、長年得てきていたのである(註:スペインの欧州共同体加盟は1986年)。

もう一人がトニー・ブレアであった。
1995年に彼は、英国の社会主義者たちを野党指定の党から救い出すリーダーと目されていた。労働党は(マーガレット・)サッチャー氏の保守党に対し16年間野党に甘んじたままであり、すべての選挙に敗北を喫していた。

1995年にはブレアは43歳だった。
党首を引き継いだ後、労働党を希望的状況に変えた。彼も、スペインの社会主義者のリーダーであるフェリペ・ゴンザレスと同様に、まず党を刷新し、こうして労働党の「存在意義の危機」にも終止符を打った。

1995年に書いた私の記事をみてみる(*)。
ブレアは、党が万年野党を脱せない説明として、次のように述べている。
「社会は変わったが、われわれ労働党は変化してこなかった。党が変わらずに、社会を変えることはできない。」

次の言葉もブレアのものだ。
「党の綱領が新たに書き直された。労働組合とわれわれの関係は変わった。党の組織は進化した。政治教育の分野で、大きな進歩を遂げた。すなわち、新しい政治と新しい地位である…。私が政界へ入ったのは、労働党を変えるためではない。国を変えるために入ったのだ。しかし、心から信じていることは、もしわが党が変わらず、時代遅れのイデオロギーの重みから自らを救わなければ、国を変えることなどできず、勝利を得ることなどできなかっただろう。そして、勝ったとしても、英国を必要な形で指導できなかっただろう。」

刷新された精神とはこれであった。
変化する精神とはこれであった。
ブレアの「ニューレフト(新左派)」とはこれであった。

このおかげで、1997年の選挙とともに労働党はそれまでの運命を変え、3期連続で選挙に勝利した初の社会主義者のリーダーという形容を手にした。10年間首相という重職に就いた。当然ながら、プラスもあればマイナスもあった。もし、イラク戦争の失敗がなければ、ブレアのプラスは、明らかに大きな比重を占めていたはずであった。

さて、バイカルは何をなしたのだろうか?
共和人民党党首は、トニー・ブレアの新左派を好んでいると1995年12月のロンドン訪問の際に語っており、党を新たな形容に相応しくしたとみなしていたし、私もそう書いていた。

しかし、次のようにも私は書き記していた。
「わかっていることは、バイカルの中にもこうしたヴィジョンをみたといっている人々がいる、ということだ。それは正しいことだし、バイカルはもっと以前にも『新左派』について語っていた。今回も語っている。希望への旅は尽きない!」

希望は尽きたのか、尽きなかったのか?

フェリペはスペインにおいて16年首相を務めた。ブレアは10年同職を務めた。いずれのリーダーも、党の刷新を行い、慢性的な野党から救い出して政権を担い、国家をプラスの方向へと変化させた。

バイカルはというと,,,。
共和人民党を刷新できなかった。刷新するという主張は事実上なかった。1995年選挙では足切りをかろうじて越えた。1999年選挙では足切りにかかり、国会で議席を獲得できなかった。2002年にも敗北した。しかし、前回選挙の場合は20%を、(擁立した)見て暮れの候補のおかげで獲得することができた。

「新左派」を長い間忘れていた。社会民主主義は紙の上のことに過ぎなかった。今日では民族主義者の旗を掲げて、(軍部の)警告の紐にくるまれて選挙に勝利しようと尽力している。そして、社会主義者インターナショナル内で警告を受けるべき地点に達した状態にある。

要は、バイカルは、共和人民党を万年野党に指導した(もしくは素晴らしい党本部ビルを建設した)ほかに、何か成したのだろうか?

ブレアについては歴史が判断を下すだろう。バイカルについては、おそらく7月22日を待つよりほかにない。(先に挙げた)括弧が閉じられるか、さらに注が書き加えられるのか、あるいは投票箱によるサプライズが生じるのだろうか?

どうなるか、みつめよう。

*「ブレアからバイカルへ」と「バイカルと新左派」と題する2つの記事は、1995年12月5、6日付のサバフSabah紙に掲載された。


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( 翻訳者:幸加木 文 )
( 記事ID:11281 )