Turker Alkan コラム:ねじれた「男らしさ」と「医師の心得」
2007年07月05日付 Radikal 紙

アブドゥッラーギュルが、「男でなきゃいかん」といった意味の発言をして、我々はみんな、それに抵抗感をおぼえたのだった。「ってことはなにか?、肝が据わった女性なんてのはありえないとでも?」明らかにそんなはずはない。そもそも、多くの場合、女性のほうが男性より肝が据わっているものだ。

しかし、「男」という言葉を口に出さないからといって、それが(実際に)「あんたも男ならさぁ」という(発言を許すような社会の)態度を変えることになっているのか?

ちっともそんなことはない。今回だって「男」という単語を用いて同じことをしている。

とりわけ集会の場で、こんなふうに。

「あんたが男だというなら、アポ(アブドゥッラー・オジャランの愛称)を吊るし上げてみろ、とくと見てやろう!」
「いや違う、あんたが男なら、それこそどうして異議を唱えなかった?もっと言えば、あんたは当時の政府の一員(一味)じゃないか!」
「あんたは、ヒモが見つけられんかったのか?ほら受け取れ。立派な、イギリス製のヒモだぞ!」
「ってことは、何か??あんたも男だったら、東部の各県に行って、あんたの首の長さを測ってみるがいい(→測れるだけの長さの首があるのかどうか!)。さてどうなることやら!」

我々の社会が(隠れた)母系社会であるからこそ、我々は自らの優越性を男らしさで示したがる。議会にほとんど女性の国会議員を送りこまない秘密は、ここにある。

さて、トルコ社会が(本当の意味で)母系社会だったらどうなるだろうか?きっと「あんたも男ならさぁ」で始まる演説をぶつことなどありえない。そういった社会で議論がどのように進むのかについては、太平洋のある小島の例を挙げることができるだろう。

その島で人々は母系社会原理の下に暮している。つまり、女性の言うことは絶対だ!この島で女性たちが言い争いを始めると、村人は周囲に集まってきて議論を見守る。二人の女性は相手を言い負かさんと言いたい放題である。一方が議論に敗れると、負けを認めて立ち去ってしまい、言い争いはお開きになる。

言い争いで双方が負けを認めない場合、どうなるかといえば?その場合、言い争いの主であった女性は周囲に集う群集の判断に委ねることになる。しかし判定が求められるものが何かといえば、我々の「母系社会」の基準からしても普通じゃないものだ!言い争いの主の女性は着ているものを脱ぎ捨て、群集に秘所を見せて(こう尋ねる。)

「どちらのものがキレイ?」

どちらのものがよりキレイかという基準で多数を得た側が、その言い争いに勝ったのだとされる!

我々がそんな次元に至ってはいないはずだと私は願ってやまない。

理性なぞ入り込む余地のない話ではないか!イギリスで自動車爆弾(でのテロ)を画策実行した者ども8人のうち6人が医師だと明らかになった!「人命を救うのだぞ」と教えられ、養われ、成長してきた人間の行きつく先は「テロリストになるのだぞ」なのか!

こんなことを受け入れられるはずもない。そういう傍から、インターネットでのある論評が目にとまった。あるトルコ人医師がこんなふうに語っていた。「驚くようなことはない。教育を受けた人々は西洋のやり方をより良く受け入れ身につけている!」と偉大なるお医者様はのたまっておられる。つまり(テロを実行した)人々は理に適った正しいことをしているのだと言うに及んでいるのだ。テロリストになるには教育と知性が欠かせないらしい。

この考え方でいくと、イスタンブルで爆発した爆弾やアンカラでの自爆犯の業績について、そして、今後起こりうる(そういった)ことについて、「あたりまえだ」とか「いいことだ」なんて受け止めねばならなくなるのだろうか?

テロで負傷してしまった場合に処置を施してくれるはずの医師に向かって、「あんたの世の中の見方はどんなだ?」などと疑って掛からねばならなくなってしまうのだろうか?「西洋人に死を!」という考え方の持ち主に、我々は病身を委ねられるのだろうか?こいつはイギリス人だから殺してしまおう、こいつはアメリカ人だから殺してしまおう・・・そんなのは、終わりのない旅だ。

とにもかくにも、9・11の攻撃を計画実行した者たちの多くがエンジニアであり、良質な教育を受けた専門性に長けた人々だった。

医者やエンジニア、学者である以前に、人間であらねばらないはずなのだが。

ナチスの収容所だって、高度な教育を受けた人々や、研究に携わる医師たちが牛耳っていたのではなかったか?


《解説》

○「男でなきゃいかん」発言の顛末と背景

この問題の発端は、6月にトルコ東部内陸の都市エラズーで行われた公正発展党の選挙向け集会にさかのぼる。
演壇に上がったギュルは、自らの大統領選出を阻んだ共和人民党を中心とする「欠席議員」を念頭に、「男なら本会議に出席するものだ(出席しなかった議員は女のようだ)」といった意味の発言を行ったのであった。
この発言にはほどなく批判の声が上がり、6月末にギュルは謝罪会見を行ったのだが、その要旨は、
 ①女性は男性よりも「強い」(単語の語感としては、身体的な頑強さや豪胆さを讃える意味に用いられる「男性的な」語彙「イート」である:訳者)のはよくよく分かっている。
 ②自らの日常的な信念から出たものではない。
 ③(クルド系国民が多数を占め社会的宗教的に保守色が強いとされる)エラズー特有の雰囲気に「乗せられて」口をついた発言であった。
 ④女性の皆様ごめんなさい。
というものであった。
しかし、謝罪会見で「もう済んだこと」とはいかず、いまだ火種がくすぶっている状況である。

○「オジャンとひも」

このやり取りの背景としては、こちらを参照。

(以上文責:長岡大輔)

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:11328 )