Taha Akyol コラム:アタテュルクと世俗主義
2007年07月10日付 Milliyet 紙

ギュンドゥズ・アクタンは尊敬すべき外交官であり思想家である。幾つかの点で我々の考えは相容れないが、それは私が彼の価値を伝えるのを妨げるものではない。今日、彼はイスタンブル第1区のMHP(民族主義者行動党)の候補者となっている。成功を祈っている。
以前から宗教と世俗主義の問題において彼が主張してきた見解を、昨日、ラディカル紙でネシェ・ドゥゼル氏のルポルタージュのなかでも説明した。
そこで彼は二つの根本的な命題を主張している。

●トルコ人は信仰においてはマートゥリーディー神学派に属しており、同派は柔軟で合理主義的な教義であった。しかし、時が経つにつれて、頑迷なアシュアリー神学派が優勢となった。今日のイスラーム的傾向と公正発展党(AKP)については、より強硬なサラフィー主義路線を踏襲している。もう一度マートゥリーディー派に戻るならば、世俗主義も我々の中に同化し、宗教と合理主義が折り合うだろう・・・。
●アタテュルクの世俗主義はマートゥリーディー派の路線にそったものだ!カリフ制を廃止するよう議会を説得した法務大臣のセイイド・ベイ(メフメト・セイイド、1873-1924)は、「我々は実践においてはハナフィー法学派であり、信仰の点ではマートゥリーディー神学派である」と述べたが、この発言を彼にアタテュルクが書かせたのである・・・。

■筋道の問題
こうした見解について私はいくつか異議がある。
実践の領域ではハナフィー学派、信仰の領域ではマートゥリーディー学派が、最も柔軟な学派(教義)であることは正しい。ウドウィッチ(Udwitch)、ヨゼフ・シャハト、ハリル・イナルジュクのような学者たちもそう書いている。
しかし、筋道として、宗教に関わる社会的問題は神学的であるよりむしろ、社会学的な性格のものなのだ。
タンズィマート以降、われわれにおける法の近代化は、確かにハナフィー学派の教義から恩恵を得、達成されたのである。オスマン朝のイスラームは中東とは非常に異なっているので、この役割は重要である。しかし、タリバーンもハナフィー学派である!したがって、「社会学的なものが重要である」と私は述べているのである。
アクタン氏は「教義あるいは神学」の観点から検討するがゆえに、今日のトルコにおけるイスラーム的傾向は同様に「サラフィー主義」だと特徴づけている!ところが逆に、今日のトルコでは都市化、市場経済、教育、民主主義などによって、イスラーム理解は徐々により柔軟になっているのだ。
であるから、これらを「サラフィー主義」と呼ぶことは間違いである。
サラフィー主義の影響は、1970年代になされたサイイド・クトゥブとマウドゥーディーの著書の翻訳と、非常に限定された「教化された」イスラーム主義一派の中に見られるだけである。しかし、その当時トルコでは全ての潮流が頑迷だった!

■アタテュルクの世俗主義
アクタン氏が、アタテュルクの(時代の)法務大臣であるセイイド・ベイを話題に取り上げたことは、特筆すべきことである。セイイド・ベイは、ダーリュル・フュヌーン(オスマン朝期の最高学府。現イスタンブル大学)においてフィクフ(イスラーム法学)の教授であり、当時、マンスリザーデ(ムスタファ・ヌーリ・パシャ、1824-1890)やズィヤ・ギョカルプ(1876-1924) などの友人たちとともに、新たな解釈による近代化と法の世俗化のために、イスラームの中から根拠を導き出した偉大な学者であり思想家であった。
セイイド・ベイは、議会で行った長く学識に富んだ演説で、カリフ制は信仰ではなく政治的機関であること、およびイスラームでは宗教と政治の権限を分割し得ることを説明した。宗教的な観点から、カリフ制の廃止を議会に説得したのは彼なのである。彼の演説は、1924年に「カリフ制の法に基づく本質」というタイトルで出版された。私は、この演説をアタテュルクが書かせたとする証拠をつかむことはできなかった。
セイイド・ベイは、残念ながら、後に不興を被り、辞任せざるを得なかった。

今日においてさえ、イスラームと世俗主義の調和の問題に関し、最も完璧な学問的著作であるセイイド・ベイの本も、残念ながら忘れられてしまった。ラテン文字による最初の印刷は、初版から約半世紀後、1969年に出版されたのである!アタテュルクの世俗主義理解は、セイイド・ベイを参照しつつ理解されるものでも、説明されうるものでもない。アタテュルクの世俗主義は「マートゥリーディー派」的であると述べることは、言い過ぎなのだ。
さらに、今日のトルコで必要とされているのは、リベラル化された世俗主義である。

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( 翻訳者:幸加木 文 )
( 記事ID:11353 )