Fikret Ertan コラム:アフスカ・トルコ人の帰還問題
2007年07月10日付 Zaman 紙

アフスカ人(訳注:メスフ人、メスへティア・トルコ人という呼称が一般的)は、1829年までオスマン帝国の州のひとつであったアフスカ州に暮していたトルコ人であった。ロシアが1829年に同州をオスマン帝国から奪取したことで、アフスカ・トルコ人たちは、オスマンの統治から離れざるをえなくなり、程なくして、まずはロシアに、のちにはグルジアに併合され、両国の統治に服することとなった。

アフスカ地方は、今日の(トルコの)カルス、アルダハン両県のかなた、グルジア南部にあるとても広大な地域である。しかし、今日の同地方に、アフスカ・トルコ人は暮してはいない。というのも、チェチェン人やイングーシ人、そしてクリミアのトルコ人(タタール人)らと同様にスターリンの抑圧の犠牲となったこの人々、つまりアフスカ・トルコ人は、他の民族と同じく1944年にスターリンの命により、寒い11月のある日、24時間のうちに武力によって住んでいた家から引き離され、家畜用の貨車に押し込められ、中央アジアの草原へと連れて行かれてしまった。連行されたアフスカ人はおおよそ12万人を数え、そのうち1万6000人は、10日間にわたる苦難の旅で、病や飢えのために貨車の中で息絶え、彼らの遺体はここやらそこやら(よく場所も特定できないままに)打ち捨てられたのであった。

アフスカ・トルコ人は、その時以来、カザフスタン、キルギス(クルグズスタン)、ウズベキスタンで暮しているが、ウズベキスタンに留まっている人々はごく僅かだ。その理由は、ご記憶のかたもおられようが、1989年に起こった流血事件でフェルガナ盆地に暮していたアフスカ人に対して反対活動を展開した同地のウズベク人が、多くのアフスカ人の血を流し、同地に暮していたアフスカ人の多くが、彼らの暮していた土地からの移住を余儀なくされたからである。移住者には、ロシアとアゼルバイジャンが門戸を開いたのみであった。ロシアに移住した者たちはクラスノダール地方で暫定滞在許可を受けて、同地で極めて苦しくかつ差別的な条件下で暮さざるをえなかった。そんな彼らのうちの一部は、ここ数年のうちにアメリカが彼らを迎え入れ支援したことで、アメリカへと移住した。今日では推計で約1万人のアフスカ・トルコ人がアメリカで暮らし、その数は今後2万人あまりに増加するだろうといわれている。

今日、アゼルバイジャンに7万人、カザフスタンに9万人、キルギスに3万人ほどのアフスカ・トルコ人が暮らす。それ以外の土地に暮すものを含めると、その総人口は約30万人に達すると推計されている。

その一方で、アフスカ人が彼らの故郷に帰還できるかどうかは、長年の議論の焦点でもある。この問題は、欧州評議会が1999年に採択した決議に従って、グルジアが、欧州評議会への加盟(訳注:グルジアの加盟は1999年)後2年以内に、アフスカ・トルコ人がグルジア内のかつて彼らが暮していた土地へと帰還できるような法律を整備することで実現しうるはずであった。グルジアは、この決定に沿った形で、(アフスカ人に)市民権を付与することを含む包括的な帰還者関連法の下地を整えねばならず、また(クルジア自身が)その実施を引き受けたのであった。

グルジアはこの問題について長年足踏み状態であり、先月に至るまで実施に関する実のある歩みを踏み出してこなかった。とはいえ、先月27日にグルジア議会である法案が可決されたことで、遅ればせながら、(グルジアは)自らに期待されていた一歩を踏み出したのである。この法案は、いまだ法「案」に過ぎず、最終的な採決は今月29日に行われるのだが、それでも、この法案によって、アフスカ人がグルジアへと帰還できる可能性がもたらされるはずである。

(現時点の)法案では以下のように求めている。まず、アフスカ人が、彼らが暮らすそれぞれの国にあるグルジアの在外公館に申請すること。また、申請者が「帰還の意思があること」を(文書等の形で)記録させること。そしてこれらの措置が、2008年1月1日より同年12月31日の間に行われるべきこと。その一方で、帰還予定の人々の住むことになる場所がどこか、彼らに対して保証されるはずの経済的支援がどうなっているか、といった問題やその他の問題に関する諸規定は明らかになってはいない。

法案が様々な国で暮しているアフスカ人にどのように受け止められ、一体どれほどのアフスカ人が帰還の決定を下すのかについては、まだ我々には分からない。さらに言えば、それが分かるためには、法案の最終版と実際の中身(が明らかになるの)を待たねばならない。しかし、とにもかくにも、帰還者が相当の数にのぼる場合には、トルコにとっても重要な動きになるであろうと現段階で口にしても言い過ぎではないはずである。

関心を抱かれた方々がこの問題の成り行きをよくよく注視し、アフスカの人々に手を差し伸べることを、我々は願わずにはおれない。



○メスフ人(メスへティア・トルコ人/アフスカ・トルコ人)と故地帰還問題

訳文では、トルコ語原文の雰囲気を残すため「アフスカ(・トルコ)人」と訳出したが、一般的には「メスフ人」と言及されることが多い。「メスフ人」という民族呼称は
・イスラムに改宗したグルジア人
・カラパパフ人(トルコ系)
・ヘムシル人(イスラムに改宗したアルメニア人)
・クルド人
といったムスリム諸民族の総称であり、1944年の中央アジア・カザフスタンの草原への強制連行の経験とその後の帰還要求運動が―故地である「メスへティ」という地域呼称を媒介として―密接に結びついたものであるといえる。また旧ソ連ではメスへティア・トルコ人とも呼ばれる。1968年に名誉回復が果たされるが、故地帰還問題はその後も積み残されたままであり、モスクワ、トビリシなどでのロビー活動が続けられた。1989年にフェルガナ盆地の中心都市アンディジャンで大規模な襲撃が起こったことを契機に中央アジア外への移住が進んだことは本文の通りであり、故地帰還問題が、旧ソ連諸国を越えて広がりを見せつつある。但し、受け入れ側のグルジアでは反対運動が組織されるなど、先行きははいまだ不透明である。
(文責:長岡大輔)

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( 翻訳者:長岡大輔 )
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