Besir Ayvazoglu コラム:「我らのサン=ジュスト」―サーメト・アーオールの人物評より
2007年08月16日付 Zaman 紙

サーメト・アーオールに、『父の友人たち』という題名の優れた著作がある。ネビオール出版社によって1958年に刊行されたこの著作で、(彼の父である)アフメト・アーオールの親しい友人たちの人物評を、その実名を記すことなく、見事な筆さばきで描き出している。各人物評の標題は、まるで、そこで語られている人物をひとことで要約したかのようである。

もしも、トルコ近代史を多少ご存知で、トルコ思想史や文学史に親しんだことがあれば、たとえば「国民的説教師」がオメル・ナジであり、「国民的詩人」がメフメト・エミン・ユルダクルであり、「無神論の思想家」がアブドゥッラー・ジェヴデトであり、「愛と女性を謳った詩人」がジェラル・サヒル・エロザンであり、「我らが政治史学者」がユスフ・アクチュラであるなんてことは、すぐにお分かりになろう。

『父の友人たち』のなかの人物評のひとつには、「我らのサン=ジュスト」という標題がついている。ご存知のとおり、サン=ジュストは、フランス革命の、その生涯を断頭台の上で閉じた、若く、影響力があり、情熱的な指導者たちのひとり。アーオールは、人物評で描き出した父の親友を、彼の若さ、向こう見ずな性格、顔立ちの美しさ、革命において担った役割、そしてその悲劇的な最期を踏まえて、サン=ジュストになぞらえた。アタテュルクがメルスィンで見出し、大国民議会議員選出を確約した上でアンカラへと連れてきた、このトルコ人の炉辺に所属する医学博士は、親友の中に「君は医者だ、革命の誰かを殺すような暴力の中にではなく、誰かを生かすような場面にこそ居るべき人間じゃないか」といった形で忠告する者がいたにもかかわらず、熱情に屈してしまう。彼は、独立法廷のメンバーに任命されて、数多くの人間の死刑判決に署名した、あるいは、署名せざるを得なかった。

独立法廷が廃止されたのち、暫くは「職もないままさまよっていた」博士は、程なくして、言語・歴史問題に関わることなり、真の知識人なら誰一人として本気にはしなかった「トルコ歴史テーゼ」の考案者として、我々の前に登場する。ゼキ・ヴェリド・トガンは、第1回トルコ歴史会議で、唯ひとり、これに異を唱えたため、イスタンブル大学の教授職を辞してウィーンへ行くことを余儀なくされたのであった。しかし、歴史テーゼのような他愛のない(!)問題は、情熱的な医師を満足させるものではなかった。サーメト・アーオールの語るところによれば、彼は「ある組織のトップでなくてはならなかったし、ある場を絶大な権威をもって取り仕切っていかねばならなかった。命令し、それらの命令をただちに実現しなくてはならなかった」。ゆえに、彼は時に、陸軍士官学校ではなく、軍医学校を選んでしまったことに対して、深い後悔の念を抱くのであった。サーメト・アーオールの語りに注意深く耳を傾けてみよう。

この後悔のうちに、彼にはある考えが浮かんだ。つまり、軍人らしさ、とは一種の心性であり、ある種の世界観であるということである。彼は軍人ではなかったけれども、軍人らしさという心性は、彼を自分の望む場所へと、自分が望む通りの名誉を得て務められるであろう場所へと、運んでいくこともできるのだった・・・。ムッソリーニにしても、ヒトラーにしても、前者は村の教師であり、後者はレンガ職人ではなかったか?今日、ムッソリーニは偉大な民族のトップに立ち、ヒトラーは恐らくは世界で最も偉大な民族を統治する力を手にしつつある。彼らは、それぞれの目的に、青年大衆を組織化することによって到達したのだ。


では、彼はどうしてムッソリーニ、あるいはヒトラーと同様の青年組織を創設しなかったのだろうか?このような組織を設けて公にすることを共和人民党が認めないであろうと分かるや、自らが属していたトルコ人の炉辺に目がとまった彼は、炉辺に所属する青年を武装させ訓練することを計画する。そして、その構想を(炉辺の会長であった)ハムドゥッラー・スプヒに打ち明ける。(スプヒから)拒否の返答を受けると、彼は時の政権の指導者たちに、トルコ人の炉辺とスプヒに対する否定的な陳情をし始めたのである。その目的は、この巨大な組織を(共和人民)党の傘下に置くことによって、自らの構想を実現することであった。こうして、(構想そもそもの)存在理由であったトルコ人の炉辺の閉鎖プロセスを始めさせたが、(同時に)彼の構想は日の目を見ることはできなかったのである。

独立法廷のメンバーであったこととトルコ人の炉辺の閉鎖において彼が果たした役割は、彼を引導を渡す達人にしてしまっていた。ゆえに、彼は、ある会食の席で、教育相に就任し、イスタンブル大学を閉鎖して当時の教授陣の多くをお払い箱にする役目を担わされることになる。公平な目を持った人間なら誰でも不運だと考えるようなこの役目を首尾よく果たした、つまり、イスタンブル大学を閉鎖し瞬く間に157名の教員の仕事を終わらせた彼は、ここで大きな誤りを犯してしまう。新たに開設された大学の開学講義を、彼自身が行ったのである。学生の激しいデモによって、極めて深刻な状況になったこの誤りは、謝って許されるような性質のものではない。
新聞は、数日後、教育相の交代を報じるのだった。

いい時代は過ぎ去り、わるい時代が始まったのだった。

ある日、カラムシュの海岸で彼は自分の子供たちと一緒にボートに乗っていたのだが、どういう訳か、ボートが転覆した。幼い娘たちを救わんと孤軍奮闘した彼が、海から救助された時には、哀れな状況だった。横たわり、そしてこときれた(1934年3月5日)。まだ37歳だった。

新聞は、「我らのサン=ジュスト」肺炎で逝く、と報じた。

トルコ近代史をご存知の方は、誰のことを私が言っているのか、よくお分かりでしょう。

分からない方には、私が言いましょう。レシト・ガーリプのことですよ。


【原注】
○アーオールの著作
久方ぶりに私が読んでみた『父の友人たち』を読者の皆さんにお奨めする。民主党期に政界入りし数度の大臣職に就いたアーオールは、この職務と並んで、文壇においても読むものを捉えて放さない、力強い作家であった。彼の描くいくつもの人物評に、彼の作家性に由来する語り口の小気味よさが表われていることに気づく。彼の著作が再版されないままなのは、口惜しいことだ。『父の思い出』(1938年)、『国民軍の精神』(1944年)、『親しい顔ぶれ』(1965年)、『友人メンデレス』(1968年)、『民主党興隆の諸要因』(1968年)、『最初のかど』(文学回顧録、1980年)といった著作は、トルコの政治史や文学史という観点から、重要なものであると言えるだろう。どこかの出版社が、ちょうど25年前に没したこの重要な作家の全著作を、全集として刊行してくれたらいいのだが。

(後略)


【人物解説】
○サーメト・アーオール(1909年~1982年)
1909年、コーカサス出身の思想家、政治家であるアフメト・アーオール(アガエフ)の末子として、現アゼルバイジャン共和国のバクー(或いはカラバフ地方のシュシャとも)で生まれる。当時、父アフメトは、青年トルコ革命後のイスタンブルに単身移住しており、母、兄姉と共に後を追って移住。
1931年アンカラ大学法学部修了ののち、フランスのストラスブールに留学。
帰国後、経済・産業省にて公務に就く。
1946年、弁護士業の傍ら、民主党(Demokrat Parti)に入党。
1950年から1960年にかけてのメンデレス政権下で同党所属の国会議員となる。
1960年クーデターにより逮捕され有罪となり、イムラルとカイセリの刑務所で服役。1964年、恩赦により釈放されたのち、政治とは間接的に関わり、執筆活動に専念。
原注で上げられたほかにも、近年、カイセリ刑務所収監中に自らの幼年・青年期を綴った自伝『人生は冒険である!』(2003年)や『全小作品集』(2003年)がヤプ・クレディ出版社から刊行されている。【文責:長岡大輔】

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:11665 )