Can Dundar コラム:「リスト」を持つ男たち―ベヒチ・エルキンとユスフ・ハラチオール
2007年08月25日付 Milliyet 紙

ちょうど、ベヒチ・エルキンの物語を、彼の孫のエミル・クブルジュクの手による『大使』(ゴア出版社 2007年)で読んだ。
ベヒチさんは、第二次世界大戦時、在パリ・トルコ共和国大使だった。
彼はその在任中、占領下のフランスでナチスが行ったユダヤ人の強制収容所への送還を目撃した。
傀儡のフランス政府は、ナチスのためにフランスに住むユダヤ人のリストを用意していた。
当時のフランスには、オスマン帝国から移住したユダヤ人が多数暮らしており、彼らの一部はトルコ国籍を持っていた。
ベヒチさんは、リストが関係者の間で出回るようになると、これらのユダヤ人たちに、トルコ国民であることを証明する書類を交付した。
ナチスに対しても「貴方がたは、中立国[訳者註:トルコの連合国側での参戦は1945年2月であり、それまでは中立を維持した。]の国民に対して手出しはできない」と主張した。
こうして、フランスのユダヤ人は、ナチスの追跡とガス室行きから救われたのだった。
ベヒチさんは、その後、ユダヤ系フランス人に対しても、トルコへの国籍変更ができる道を開き、新月旗を掲げた列車で2万人近いユダヤ人がトルコへと逃れられるように取り計らったのである。
私たちは、似たような救出作戦を描いた映画『シンドラーのリスト』をハラハラ、ドキドキして観るのだけれど、ベヒチさんのほうはエスキシェヒル県のエンヴェリィエにある簡素な墓地で眠っているままだった。
いまや彼の孫による著作が日の目を見たことで、今後はベヒチさんの銅像を立てたり、彼についての映画を撮ることが構想されているという。

***

ナチス以降「国家が握っているリスト」と聞くたびに、私の血は凍りついてしまうのだ・・・。
なぜなら、そういったリストが、いつ、どんな目的で、どんなふうに使われるのか、ちっとも定かではないのだから。
昨日、電話で話したある私の親戚が、30年前エラズー県のアルジャクの町に電線を敷設しに行った時に耳にした話を教えてくれた・・・。アルジャクは、強制移住の時期に移住を余儀なくされたアルメニア人たちが集められた中心地だったらしい。数千のアルメニア人がベイルートに向かう前に、かの地に集められたそうである。集められる際に、アルメニア人の娘たちの中には、恐怖のあまり逃げ出して在地のクルド人のアー[大地主]と結婚した者もいたらしい。
彼女たちはムスリムとなり、彼女らの子供たちはこの件について知らされないまま育てられた。時が経つにつれ「この話の本当のところ」は、地域の言い伝えのなかのめくるのを躊躇うページのひとつとして、忘れるがままにされたのだった。

***

トルコ歴史協会会長のユスフ・ハラチオールは目下、手元のファイルを示してこう語っている。
「私の手元にはアルメニア人改宗者のリストがあります、アルメニア人の名前とそのトルコ語名、どの街区に居住していたかについての(云々)・・・」
そしてハラチオールはこうも述べる「しかしこれはいかなる時も公表しません。彼らが手にした安寧を壊すことはしません。」
たったこれだけで、彼らが身の毛もよだつ思いをする訳はないと、お思いでしょうか?
歴史家は、もちろん史料を調べ上げるのが本分なのだろう。
しかし、もしも「国家」が、「彼らは[強制移住させられたのではなく]殺されたのだ」という主張に反論するために、アルメニア人の名が記されたファイルの中身と「貴方がたの過去について私は知っているぞ。貴方がた全員についての記録は私の手元にある」と述べるようなことになってしまったら・・・。
かつて、非ムスリムが住む家々が夜間に目印をつけられて昼間に放火されたり、アレヴィー信徒の暮らす街区が襲撃されたりした国で、国民が恐怖にさいなまれない訳がないではないか?

***

私たちは、いったいどちらを誇ったらいいのだろう?
ナチスのリストから、ユダヤ人を救った「大使」がいるようなトルコをか?
自らのリストを、「改宗者」たちに思い出させるような「歴史家」がいるようなトルコをか?
もしも明日、リストがインターネット上に出回った場合、我々の同胞を救ってくれる大使は現れるのだろうか?

Tweet
シェア


現地の新聞はこちら
関連翻訳:トルコ歴史協会会長ハラチオウル氏、釈明会見で「アルメニア人改宗者のリストがある」と発言

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:11742 )