Resul Tosunコラム:トルコ人、クルド人、アレヴィー信徒、アルメニア人 etc…
2007年08月25日付 Yeni Safak 紙

問題を真正面からとりあげるなら、最初に言いたいことは、「人に母親や父親を選ぶことはできない」という一文になるだろう。人に母親と父親を選ぶ権利が無いのだから、自分が属しているルーツのために非難されたり、侮辱されたりすることは、見識にも道理にも反している。

したがって、誰かを異人種だからといって侮辱したり、否定したり、または悪態をついたりすることも間違いである。

言い換えれば、人種差別は間違っている。

その一方で、人が母親や父親を、ひいては自らの人種を愛することはごく自然なことだ。しかしそれを他と比較して上に見たり、または卑下したりすることは不自然であり、間違いだ。

なぜなら誰も自分の母親や父親を選ぶことはできないのだから。

私は第1にこういう論理にたち、ルーツのためにいかなる人も辱めないし、非難しない。第2に、私の信条がこれを妨げる。
私が信ずるところでは、いかなる人種にも優位性はない。優位性を図るバロメーターは、きれいな心の持ち主である、道徳的である、正直である、悪事をはたらかない、良いことをしようとする、といった美徳である。

だからどんな人種にも、良い人も悪い人もいるのだ。

トルコ歴史協会の会長、ユスフ・ハラチオール教授は講演のなかで「強制移住から逃れるために、自らをクルド人、そしてアレヴィー信徒と名乗ったアルメニア人たちがいる」と発言し、歴史的な事項を指摘した。そのため一部から標的とされ、きちんと裁かれることなく罷免が求められている。

ハラチオール氏が公的機関の長であるため、口からでたこれらの発言にメッセージ性があるかもしれないと考えられており、自然と重要性が増すのである。

当然のことながら、手元に10万人のアルメニア人改宗者のリストがあるという発言も、脅しとして受け取られている!

しかし発言している人物は、研究者であるひとりの歴史家だ。調査・研究し、学術的な活動をした。手元に史料があるとも言っている。このような歴史家に対する返答は、同じレベルで行われる必要がある。

ハラチオール氏が触れた問題は、強制移住の際に起こったことで、過去の歴史を研究するものには知られたあたりまえの事件だ。バルカン半島ではこれと反対のことも起こったという。オスマン帝国が解体されると、一部のトルコ人はキリスト教徒となり、そこにとどまったことも歴史家たちによって発言されてきた。

ハラチオール氏もひとりの歴史家として話している。リンチ好きなタイプの人たちの存在が世間の称賛を得るような現代のトルコ社会で、ハラチオール氏は発言しなければよかったのにとは思うが。

私たちの社会では、学者や思想家たちは本来的な意味で学問という聖域にいることが理解されていない。こういった社会では、一部の人たちが不快に思うとすぐ、大事に至るのだ。国家機関がこの世の終わりになるような大ごとを起こすこともあれば、今回のように市民社会団体の場合もある。

いずれにしてもハラチオール氏の発言はきちんと調べてみれば、実際、今起こっているほどに不快にされるような状況はない。

ハラチオール氏の発言では、アレヴィー信徒についてもクルド人についてもアルメニア系だとは言っていない。
「トルコ国内にいるアレヴィー信徒の99パーセントがテュルクメン人であること、そして強制移住から逃れたかったアルメニア人がアナトリアにとどまるために自らを『アレヴィー信徒のクルド人』と名乗った、とそこでは発言したのです」といっている。

ハラチオール氏は、クルド人の存在を否定していないことも明確に述べている。「クルド人がテュルクメン人だとは言っていません。『今日、自らをクルド人だと思っている一部の人たちが、16世紀の記録によるとテュルクメン人であることが示されている』と述べたのです。これは『クルド人はいない』という意味ですか?アナトリアには150万人のアルメニア人が住んでいました。これらの人たちは本当にどこにいったのでしょう?私はこのことを調査したのです。アルメニア人、クルド人、トルコ人といって調査したのではないのです」

物事の全体像を隅においやって、ただ一部だけをとりあげて相手を非難し、きちんと議論せずに罷免にする、リンチするといったことは、残念ながら我々の社会の中で頻繁にみられる現実だ。

もちろんこの動揺は、10万人のアルメニア改宗者のリストに起因している。

このリストが政治家に対して使われる可能性が、一部で心配されている。ハラチオール氏がトルコ歴史協会会長という肩書きでもってこれを公表したことが偶然ではないという疑念も、心配を増幅させる。

しかし私が思うには普通に罪のない人々が心配する必要はない。ルーツが何であれ、今日我々全員がもっているアイデンティティーこそが重要なのではないだろうか?トルコ共和国の国民であれば、どのような宗教、エスニックグループに属していようと、違うグループに属している国民と相違があるのだろうか?憲法の条項のなかで十分に明らかにされているではないか。

ムスリムであるなら、祖父や先祖がアルメニア人であることに何の不利益もない。なぜならイスラームは、それまでのことを消し去ってしまうからだ。ある人がムスリムに改宗したのが1分前であったとしても、その人は全てのムスリムにとって兄弟なのだ。

ギリシャ系のスヘイビ・ルーミーを、ペルシア系のセルマン・ファルスィーを、エチオピア系のビラリー・ハベシーを兄弟にした宗教(イスラーム)を信奉する一員として、我々は誰に対してもそのルーツを理由に非難することはできない。宗教上、そういったことは禁止されているし、ハラーム(禁忌)である。

そうであるなら、ハラチオール氏やまたその他の人たちが行った学術研究に普通ならば動揺する必要はないのだ。

歴史的な問題について、政治的なことを考慮して判断を下すのは間違っている。歴史的事項は、歴史家が議論すべきなのだ。

いわゆる大虐殺の主張に対しても我々は、「この問題を政治家たちが挙手しながらではなく、歴史家たちが調査研究しながら結論を出してほしい」と言っていますよね。

ハラチオール氏の研究も、こういった研究に貢献するという視点が我々に必要なのではないか。

この問題に対して、トルコ性、クルド性、アレヴィー性といった観点からではなく、歴史的事項としてみること、そして歴史的な事実を恐れてはいけないと私は考えている。

しかしだ。

これらのことと異なる次元で、ハラチオール氏の発言が前もって計画されたシナリオの一端であるのであれば、全く話が違ってくる!

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( 翻訳者:山下王世 )
( 記事ID:11747 )