Turker Alkan コラム:孤独死を考える
2007年09月23日付 Radikal 紙

学校が始まった。何百万人もの父親たちは、何百万人もの子供たちに向かって「さあ、わが子よ。私たちはわが身を粉にしてお前を学校にやるのだから、勉学して一人前の人間になれ!けっして怠けることがないように。仕事[学業]に励めば成功もし幸せにもなるのだからね?」と言った。

本当に、たくさん働いたら幸せになるのだろうか?

極めて議論の余地ありだ。[経済的に]豊かな国民が貧しい国民よりも幸せだと言えるだろうか?「世界豊かさ調査」に従えば、貧しい社会でも、とても幸せな場合だってありうる。

豊かさがもたらす効用のひとつは、「長寿」である。より長生きすることが、より幸せなことだいう意味になるだろうか?それこそ議論の余地ありである。

長生きも過ぎてしまえば、結果的に「孤独な死」という意味になってしまいかねない。

アメリカでは死をひとりぼっちで迎えたくないと考える懐に余裕のある高齢者向けに、とある会社が設立された。個々の仕事や事情のために父親の死の床に立ち会えないであろう息子たちや、妻たち、友人たちの代わりを務めるのだ、と同社は主張する。

もちろん、それなりの料金と引き換えに!

日本人もアメリカ人のようにとても勤勉であり、長寿である。先頃このような長生きした日本人の遺体が見つかった。暫く家賃が支払われていないからと、大家が借り主の様子を窺いにやってきて、果たしてそこで見たのものとは。借主は3年前に亡くなっていたそうである!後には、テレビの向かいに骨をむき出しにした骸骨があったのだという!3年間の家賃は銀行の自動引き落としで支払われていたらしい。

きっと、3年もの間、心配したり気に掛けたりして訪ねる人さえいなかったのだろう。このような生き方は、一種死んでいることと同じではないか?ちょうど日本での年間の自殺者数32,000名のうち11,000名が80歳以上だと目されている。

孤独死の重要な要因のひとつは、老いそのものである。80-90代の人の子供たちも、おおよそ年齢は60-70代あたり。自らが介助を必要とするようなこれらの人々が父母の面倒をみるのは困難である。

2055年に65歳以上となる日本人は、人口の40パーセントに達すると予測される。

2020年の東京における75歳以上人口は490万人に達するとされる。

現在、毎年の孤独な死を迎える日本人の数は20,000人!死亡者全体の2パーセントだ。

発展や成長の見過ごされた一面とは、これなのかもしれない。

ベドゥリ・ラフミがこう詠んだように[*]。

お前に大きな街のことを語ろう
もっとも大きなモスクがそこに建てられ
もっとも小さな墓がそこにつくられる
もっとも立派な碑文がそこに刻まれ
尖塔の高みよりセラーが詠まれるのだけれど
周囲の家々では姦通が行われ
大きな街には嘘が横行する 若者よ
小さな村には
そんな墓地さえないのだけれど

大きな街に繋がれるな 我がメフメドよ
こんな街に住むがいい
小さくとも我々の街で
道にはお前が知らぬ顔や
お前が尻もぶてないような誰かがうろつくこともなく
木々のすべてにお前の手が触れ
大地のすべてにお前の汗が染み
そして 静まり返った家々のどこでも
お前が知らないままに死を迎える者がいない街に


{*}ベドゥリ・ラフミ・エユボウル(1913-1975)画家であり詩人。本コラムに引用されている詩は、“Büyük Şehirleri Takdim Ederim”(「大きな街を語って聞かせる」)の全体である。ちなみに「セラー」とはイスラムで個人が亡くなった際にモスクの尖塔(ミナレット)から市中に周知するために詠まれる布告のことである。

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:11992 )